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俺の大切なその人

 ーはじまりー

俺はその日、忘れかけていた たいせつなそのひと を思い出した。


階段をまるで駆け上がるかのように、俺は帰路を急いだ。

それはいつものこと。

風のように早く、誰よりも早く、早く。

まるで生き急いで居るみたいだね、と友人に笑われながら、いつもそうして早足で歩く。俺を追い越せる者はいない。どんどん、ゆっくり歩く人たちを抜いてゆく。

そして家に着いた。

もうすっかり忘れかけていた、大切な人が俺を出迎えた。

「おかえり」

俺の帰宅を推し量るかのように、できたての食事が食卓に並ぶ。全て手作りだ。有機無農薬の野菜は、全て育てた人が分かって居る。愛情を込めて丁寧に作られた材料を使って、丁寧に作られた食事だ。

「今日も、あなたの好きなものを作ったよ」

食卓に並ぶのは、その日俺が食べたいと思っていたものばかり。いつもそうだ。贅沢なものも、躊躇なく並ぶ。

「好きなものを食べて欲しいなと思って」

嬉しそうに話すその人に、俺はそっけなく答える。

「ま、そんなの当たり前だけどな」

刹那その人に、少し寂しそうな表情が浮かぶ。だがそれはほんの一瞬で、すぐに気を取り直したように、その人は美味しそうに食事を口に運んだ。

「好きなものを食べなきゃね」

その言葉を聞き流し、俺はスマホの画面を眺め、いつもチェックしているブログを読みながら食事をした。美味しいとは感じている。でも、ただそれだけだ。

食事が終わると、俺はそのままスマホで色々なサイトを眺めたり、スマホゲームに興じたりする。食事の感想も言わなければ、作ったその人を労う事もない。そんなものは 当たり前 のことだ。食事を用意するにあたっては、自由に金を使って良いと言ってある。材料に拘ろうが、惣菜を買ってこようが、好きなものをなんでも好きに買って良いんだ。俺はなんて優しくて心が広いんだろうとすら思う。

ソファに寝転んで、動画を次々眺める。大して興味もない動画を。眠るまでの暇つぶしだ。

その人は、黙って絵を描いていた。筆を持ち、子ども騙しのようなイラストを、楽しそうに描いている。

「ねえ、これって仕事になるかな?」

その人は、俺にそう問いかけた。

「そんなもの、仕事になる訳がないじゃないか。もっと上手い人は沢山居るだろ。いつまでも夢を見てるんじゃないよ。もっと現実を見て、人の役に立つことを考えろよ。」

俺がそう言うと、その人は悲しそうに俯いた。そして黙って、筆を置いた。

夜は更けてゆく。


来る日も来る日も、そんな日々が続く。

その人は、ある日俺にこう聞いた。

「ねえ、私物語を思いついたの。書いてみようかな。作家になれたら楽しそうだよね。」

俺はすかさずこう答えた。

「何を寝ぼけたことを言って居るんだ。書いてて楽しいかもしれないが、そんなものは趣味の範疇だ。上手い話が書けるやつはごまんと居るだろ。書きたければ書けば良い。ただし、趣味だと割り切ってな。」

その人は、肩を落としながら小さく頷いた。


ある朝、その人は泣いていた。黙ってぽろぽろと涙をこぼして居た。

「夢を見たの。とても悲しい夢。」

しょんぼりしているその人の姿を眺めながら、つい、口をついて出る言葉。

「そんな内省ばかり繰り返して何になるんだ。いい加減、前を向け。いつまでそうやって、だらだらと引きこもって昼寝ばかりしているつもりだよ。そろそろやり甲斐のあることを見つけて社会に出て、人の役に立つようなことをしてみろよ。」

俺のそんな言葉を聞いて、その人は悲しい表情のままうな垂れた。

傷つけたい訳じゃない。

でも、いつもそんな言葉しか出てこない。

俺はその人に、自由に金を使って良いと言って居るし、好きなものを食べても良いし、好きなだけ寝てても良い、好きなだけ、好きなことをして過ごして良いとも伝えてきた。

だけど、やっぱり心の奥底では、そんなのは人としてダメだと感じても居た。

人としての正解なんて分からないけれど、その人は本当はもっともっと、すごい事が出来るはずなんじゃないか。だから、そうして飯を食って寝て居るだけの日々を過ごして居る姿を、本当は見て居たくなかったのかもしれない。

俺はたまらず、家を出た。近所のカフェで、ハーブティを頼んだ。

カフェで出されたハーブティは美味かったが、その人が入れるハーブティの方が、本当はもっと優しい味がした。


頭が冷えた頃帰宅すると、その人の友達が家に遊びに来ていた。その人は占いが出来るので、占ってもらいに来たのだという。俺は横で、その人が友達を占う様子を眺めて居た。親身に話を聞き、真剣に解説をしている。最後に、友達は

「おかげで心が軽くなったよ」

と、その人に話していた。

友達が帰ったあと、その人は俺にこう聞いた。

「ねえ、私の占いどうかな。これで、たくさんの人が幸せになる、お手伝いができるかな。」

俺は反射的に鼻で笑っていた。

「お前の占いなんかより、よほど上手く占えるやつは沢山居るだろう。良い気になって勘違いしてるんじゃないよ。お前はダメだ。全然ダメだ。誰よりもダメだ。もっと、上手くやれる事はないのか。誰よりも上手にできる事はもっと他に何かないのか。」

その人は、黙って俺の言葉を受け止めて居た。

「そうだよね。私全然ダメだよね。まだまだ、ダメだよね。幾ら何かを学んでも、何を身につけてもちっとも上手くやれる気がしない。こんな私にも、何か上手くできる事はないのかな。。。」

丸くなった小さな背中を見たくなくて、俺はすぐに眠ることにした。

「どうして私はこんなにダメなんだろう。この手にはなんにもないよ。」

その人の、小さな小さな呟きに、俺は聞こえないフリをした。


そんな日々が過ぎていく。

その人はある日、歌を歌いたいと言った。綺麗な裏声で、古典的な歌曲を歌った。

「ねえ、私歌いたい。歌って居るととても楽しいの。これを仕事に出来ないかな。私の歌に癒される人がいたら、どんなに素敵な人生だろう。」

俺は反射的に怒鳴っていた。

「お前は馬鹿か。まだ寝言を言うのか。いい歳をして、人前で歌うだなんて気でも触れたのか。しかもちょっと声が良い位で、音程も正確じゃないだろう。プロになるならちょっとの音程の狂いも許されないぞ。お前にピッチが正確に取れるのか。伴奏だって出来ないだろ。曲も作れないだろう。なんにも出来ないじゃないか。」

その人は、瞳を潤ませながらも珍しく口を開いた。

「プロなら全員ピッチが正確な訳でもないじゃない。音程がそんなに大事なら、ロボットにでも歌わせればいいじゃない。どうしてダメなの。私がやること、どうして全部ダメなの。」

その人の顔に悲しみの表情が強く浮かぶ。まるで、玩具を全て取り上げられた子どものようだと思った。

天然繊維の肌触りの良い、ゆったりとした服を着たその人は、細い肩を震わせて泣いていた。柔らかい肌触りの衣服を着て居る筈なのに、まるで棘だらけの鎧に覆われて居るように、沈痛な面持ちで。

「見栄えが良いだけの人生はもう、送りたくないの。私は私の好きなことをして生きていきたい。でも、どうしてどれもこれもダメだって言うの。どうして、なにひとつ認めてくれないの。全部、誰かもわからない誰かといつも比べては、ダメだダメだってばかり言うの。」

とうとう、その人はそんな事を口にした。そう言われても、ダメなものはダメだ。

俺は自分の姿を確認しようと思った。いつも誰にも真似出来ないような個性的な服を着て、いつも誰にも追い越されないように素早く歩き、いつも、誰よりも素晴らしい存在で在り続けようと努力して居る俺自身の姿を。

「ねえ、ちゃんと私の姿を見てよ。」

その人は言う。悲しみに眉根を寄せて。いい歳をしてみっともないと思っていたが、その人は柔らかい優しい雰囲気の素敵な人だった。

俺はどうだっただろう。

「お絵かきも好き、お話を書くのも好き、人の話を聞くのも得意、占いするのも好き、私には好きなことが沢山あるよ。でも、じゃあ、あなたはどうなの。」

その人が言う。俺はどうだっただろう。俺は果たして、何が好きなのだろう。毎日スマホで、さして興味もない文書や動画を眺めるばかり。そういったものを眺めて、新しい知識を入れて博識を気取っていただけ。知識を入れて学んでいた気になっていただけ。

その人が作る料理も、綺麗に掃除された部屋も、お日様の香りがする洗濯物も、そんなもの当たり前だと思っていた。ふかふかに干された布団で眠るのも、そんなもの当たり前だと思っていた。

さて、俺は何が得意なんだっけ。

俺は、どんな姿をしていたんだっけ。


俺は・・・・・・・




俺は、自らの姿を確認しようとした。

俺は、そうだ。


俺は、その人だった。

いつも俺のために食事を丁寧に作って、

いつも俺のために家を整えて、

いつも俺の好きなもので周りを満たそうと頑張って

少しでも、楽しく気持ちよく過ごせるように気遣ってくれていた


その人は、俺自身だったのだ。


俺はいつも、自分自身に感謝などせず


いつも自分自身に激しく厳しいダメ出しばかりを繰り返していた。



俺の大切なその人は、俺自身のことだったのだ。


続く