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赤ちゃんと猫。自分の変化を自覚した行動とは・・・

Instagramには オススメ なる機能がある。
別段フォローもしていないけれど、それまでの閲覧履歴から勝手に閲覧を強要してくるシステムだ。
それはInstagramに限ったことではなく、昨今のSNSなら大抵何にでもある機能。
恐るべし収集癖! ってやつだ(笑)

ある時、こんな動画がオススメとして現れた。
猫と赤ちゃんが写っている。
赤ちゃんが、横に座っている猫の足をわしっと掴む。
ここで「ついに恐れていたことが起きた」という字幕が入った。
猫はするりと赤ちゃんの手から自分の足を抜いて、そっと赤ちゃんに近寄る。
コメント欄には、
「怒らない猫ちゃんえらい!」
「ヒヤッとしたけど、賢い猫ちゃんでよかった」
「赤ちゃんを攻撃してはいけないって、わかってるんですね」
などなど、足を掴まれたのに静かに赤ちゃんに寄って行った猫を褒めるコメントであふれ返っていた。

いやいやいや待て。
私は結構心底驚いた。
赤ちゃんと猫ちゃんは、明らかに会話をしていた。
意思の疎通をはかっていた。
赤ちゃんが、「猫ちゃんもっとこっちに来て」って意思表示したから、猫ちゃんは「はいよ」って側に寄っただけだった。映像から充分それが伝わった。

一瞬、「赤ちゃんと猫ちゃんは会話していますね」って書き込もうかと思った。
過去の私ならきっと、躊躇する間もなく書き込んだと思う。
でも、私は今回はたと手を止めた。

・・・この人たち、私の知らん人じゃん。

知らない人に向かって、突然なにを私はしようとしていたのだろう。
道端で見かけて声をかけるよりもずっと頓狂なことをしようとしている自分にハッと気がついて、サッとスクロールをした。


最近、たびたび過去の自分の姿を振り返る機会がある。
振り返れるということは、そこに差分が発生しているということ。

インターネット上で、垣根なく知らない人とコミュニケーションが取れるのは文明の力の利点であるし、実際私もSNS上でコメントをいただけるのはとても嬉しい。

だから、そこでコメントを書くこと自体は、コメント欄が設けられている以上とても自然なことなのだけれど、今回私が踏みとどまった理由は、コメントをつけるつけないの問題ではなかった。

どういうことか。
そのコメント欄は、赤ちゃんを攻撃しない猫ちゃんを褒めそやす場だったのだ。
私は寸でのところでそこに水を差しに行こうとしていた、ということ。

赤ちゃんと猫ちゃんが会話をしていた。
それは私の世界での真実であり、動物と意思の疎通ができると初めから思えていない世界にとっては、何を馬鹿なこと言ってんの案件ですら有り得る。
日本語のコメント欄にハングル語で突然コメント書いちゃうより、翻訳機能がない分もっと伝わりにくい。
それよりも、猫ちゃんの賢さを喜んでいるのだから、そこはそのままでいいじゃないか。
”お門違いな場所に土足でズカズカ上がっていくのをやめた”
今回の私はその感覚に近かった。

過去の私には、その感覚が薄かった。
みんな同じ世界に生きていると思っていたから、自分が知っている”正解”をみんなにも知ってほしいと思っていた。

もちろん私にとっては、赤ちゃんとだって動物とだって意思の疎通が当たり前の世界が素敵だと思ってはいるけれど、それはあくまで私の価値観で作られた世界のはなし。
もしも、言葉以外での意思の疎通ができない世界よりも、言葉がなくても会話ができる世界の方が好きだと思う人がいるなら、そういう人同士でそんな話をすればいい。
そもそも、言葉でしか。いや、言葉を以ってすら意思の疎通ができない、この世界で生きていること自体に意味があるのなら、その世界も魅力ある学びにあふれ尊重されるべき世界なのだと思う。

だからこそ、その尊重されるべき世界での楽しい場に水を差すことをやめたのだった。


最近は、ようやくひとりひとりに世界があり、その世界は似て非なるものなのだと感じられるようになってきた。

先の赤ちゃんと猫ちゃんの話だって、ちょっと前の自分なら会話していますねなんてことすらわからなかった。何より私自身が、動物の気持ちがわからなくて蹲って泣いていたような人間だったのだから。

その、蹲って泣くような経験を経て今の自分を作り上げてきたのだと思ったら、どんな自分の世界で生きるのも自分次第なのだと思えてくる。
自分が住んでいるこの世界に対する捉え方から変化しているということに、こうしてひとつひとつ気付いて行くことがまた、シミュレーションゲームの面クリア感覚でとても面白く感じられている。



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