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料理から受けとるもの

鬼滅の刃無限列車編のアニメを見ていたら、無性に牛鍋弁当が食べたくなった。

とはいえ大正時代が舞台のアニメだし、どこかに同じようなお弁当が売られているのかどうかもわからない。
ウマいウマいと連発する煉獄さんを恨めしく思いながら、お弁当が食べたいなぁとしみじみ思った。


私は料理は嫌いじゃないし、食べたいものを無心で作る時間も好きだ。
でも、無性にお弁当が食べたくなった。

翌日、駅前まで出掛けて、ほんとうに久し振りにお弁当を購入した。


帰り道を歩きながら、少し前に従妹から貰ったお惣菜がとても美味しくて、身体に染み渡るようだったことを思い出し、このお弁当が食べたい気持ちは、あながち煉獄さんのせいばかりではないかもしれないな、と思った。



以前、家族のために食事を作る人の想いについて、書いたことがある。

食事を自分のためだけには作る気がしない、という人はとても多いように思うけれど、誰かのため、の中には自分自身のため、も含まれていたほうがバランスがいいよね、みたいな思いで書いたのだけれど。

購入したお弁当を片手に気がついた。

私は普段、自分のためだけに作ったものばかりを食べていて、誰かが誰かのために作ったものをほとんど食べていなかった。

あまり外食をしないし、お弁当を買うこともないため、そうなっていた。

だけど、これもまたバランスが悪いことだったのだと気がついた。


従妹からもらった手づくりのお惣菜は、とても美味しくて味わいながら食べたのだけれど、それは従妹が料理上手だからだと思っていた。

でも、ハッキリわかったことがある。

従妹が家族のために心を込めて作ったものだからこそ、あんなに美味しく感じたのだということ。


料理は栄養補給のためだけに食べるのではないんだと、改めてわかった。
そこには、食材そのものの命をいただくことはもちろん、作り手の愛も込められていて、そういった目には見えないあらゆるエネルギーもすべて含めての、料理なのだということ。


私が今手にしているお弁当も、作る人がいれば盛り付ける人もいて、運ぶ人がいてレジを打つ人がいて、私の手にやってきた。


物理的な食べものの上には、もっといろんなエネルギーがこめられていて、私はきっと自炊続きの日々で、そういったものの栄養素が不足していたことを感じていたのではないかと思った。


ただご飯を食べる行為の向こう側には、なにかもっと目には見えない心の栄養分というか、エネルギーの交流がある。

自炊だけではわからないし、与えるだけでもわからない。


食事って奥深いエネルギーの交流なのかもしれないと。
牛鍋弁当屋のフクちゃんと煉獄さんの交流を思い出しながら、そんなことを思った。

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