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025*個性豊かな家族紹介~母の巻~

ロングネイルねーさんの井崎綾香(いざきあやか)と申します😌
友人や仕事仲間から「あやねー」と呼ばれています。

以前、父のことについて紹介しました。

今回は母のことについて紹介をしようと思います🧑‍🍼
母はちょっと天然で明るい、THE 田舎のおばちゃんといった感じです😄
高校卒業後、大学の卒業の資格をとり、地元の幼稚園で幼稚園教諭として結婚をするまでお仕事をしていました。
そのせいか、子供会などでよく前に立って手遊びなどを教えてくれる近所のおばちゃんだったなぁと思います🧡


一家の元気の元、どんなときでも努力をする母

私が小学校の中学年のころ、母に乳がんが見つかり2~3週間だったか入院をしていました。
それまで身近な人が入院をしたという記憶がなかったので、私はショックを受けたのを覚えています。
いつも元気だったのに、今目の前にいる母は元気なのにと理解が追いつきませんでした。
どうやらたまたま行った検診で影がみつかり、詳しく検査をした結果、手術をすることに。
手術は無事成功し7㎜ほどの腫瘍を摘出。
30年ほど前の手術ですが、幸い再発はしていないので母は元気に暮らしています。

母が入院している間、家のことは父がすべて行ってくれていました。
もちろん、私たち兄妹もできることは自分たちでやっていました。
ちょっとしたお手伝いは普段からしていたので、何もできなくて困ったということにならなかったのは、日ごろの母の采配の賜物。
そんな中、ちょうど私の遠足が重なり、父が一生懸命おいしいお弁当を作ってくれたのですが、やはり心から楽しめなかったように記憶しています。
当時、父の職場の2階に自宅があったため何かあれば近くに父がいる安心感はありました。
そして、ご近所さんとも家族ぐるみで仲良くしており、みなさんがいろいろと助けてくれていました。
ご近所づきあいってありがたいですね。

術後、みんなでお見舞いに行った時満面の笑顔の母が病室で待っていて、泣きそうになる私。。。
母の近くに行きパジャマの袖がぺたんこで腕がないのかと、私は言葉を失いましたが、手術の影響で腕を胸の近くで固定しているのだと母が教えてくれて、また泣きそうになりました。
母がいなくなってしまうのではないかとずっと不安に思っていたのですが、笑顔で話す母をみて本当に安心したのを覚えています。

退院後は、自宅でリハビリをする母。
私は大人たちの会話で母が腫瘍のあった方の乳房を全摘したことを知っていました。
その影響で腕を固定していたようで、リハビリはその腕を動かすことをメインに頑張っていました。
腕を高く上げることが困難らしく、ゆっくり可動域をあげていく運動をこつこつ行っていました。
運動中は痛そうに顔をゆがませることもありましたが、普段はきつそうな姿は一切見せませんでした。
本当にパワフルな母です。

一度だけ親戚の家で母と一緒にお風呂に入る機会がありました。
私もある程度成長していたのですが、少し緊張していました。
母:「あんた、見るの初めてやね~」
そう言いながら笑っていました。
その一言を今思うと、母の優しさだったんだなと感じます。
ショックがなかったといえばウソになりますが、どんな姿になろうと母の気配りやパワフルさは変わることないんだなと実感した瞬間でした。

ほんの数日でしたが母がいないという体験は、大きな不安と恐怖に包まれました。
しかし、母は私たちが困らないように準備をしてくれていました。
大前提普段からどこに出しても恥をかかないように、私たちにいろいろなことをさせてくれていました。
当時はめんどくさいなとか思ってましたが、社会人になってその経験のありがたみを感じます。

感覚で生きているのかな? ちょっと天然でかわいい母

母は機械の操作が苦手で、ビデオ録画の予約ができませんでした。
なので残したい番組が始まったら録画ボタンを押すといった具合です。
何度説明しても「。。。わからん」と返ってくるほど。
ママン、覚える気ある? と聞いたこともあったかな。

私が専門学生だったころ帰省したタイミングで、購入したばかりの母用の携帯電話に家族の電話番号やメールアドレス登録をしてあげました。
ひと通り電話のかけ方、メール作成、送信のやり方を対面で説明し、私は実家を後にしました。
ある日、母から初めてメールが届いていたので開いてみると、何も書かれていない空メールでした。
何事かと電話してみると。。。
母:「なんかねぇ、いろいろボタン押しよったら、封筒がふやぁ~んて飛んで行ったんよぉ」
とのこと。
どうやら誤送信だったようなのですが、描写がかわいらしくて、思わず吹いてしまいました。
ふやぁ~んって笑
確かに当時のガラケーはメールの送受信時、封筒がふよふよ飛んでいくアニメーションがありましたね📨

基本表現は擬音が多い母。
インスピレーションで生きているのかもしれません。

一度あった人はみんな友達?! 誰とでも仲良くなる母

私が初めて一人暮らしをするために、母と一緒に福岡の不動産屋さんへ行った時の話です。
営業のお兄さんは一生懸命いろんな物件を紹介してくれて、母と一緒に頭を悩ませながら、なんとか決めました。
数週間後、不動産屋さんから鍵を受け取り初めてお部屋へ向かっていました。
たまたまお部屋を探してくれた営業のお兄さんがいなかったので、挨拶ができずにいました。

母とお部屋に向かって歩いていると、前から見たことある男性がやってきました。
私はあの営業さんだなと気づいていたのですが、お兄さんは全く気付いていなかったようなので、そのまますれ違おうとしていました。
すると、母がお兄さんの顔を覗き込むようにみて
母:「あら、この人やない?」
えっっっっ!!! この人って笑
お兄さんもいきなり終えをかけられびっくりし、足を止めてしまいました。
母:「先日はどうも~。これから向かうんです~」
とマイペースにお話し。
お友達かと思うほどの距離感で話を進める、強めな母。
18歳の私は、もうやめてくれと思いながら少し距離をとってしまいました。

まだまだ成長途中の私にはいきなり話しかけるという母の行動が信じられなかったのですが、母の感覚では、知っている人に挨拶しないのは失礼といった感じなのかもしれません。
どこまでもマイペースで屈託のない母です。

おもてなしの達人! 何でも手作りしちゃう母

結婚してから母は専業主婦となりました。
私が子供のころから誕生日や、イベントの時は母の手作りケーキが欠かせませんでした。
得意なケーキは、ベイクドチーズケーキ。
私と一番上の兄が大好きなケーキでした。
何度か一緒に作ったりもしました。

ほかにも父の職場の方が家に来た際も腕によりをかけて料理をしていました。
カツオのたたきや、そば稲荷、イワシの南蛮漬けやピーナッツ豆腐。
デザートはりんごのケーキのときもあれば、ティラミスのときもあったし、もちろんチーズケーキのときも。
いちごの季節はいちご大福も手作りしていました。
特別な日の料理はもちろんですが、日常の食事もお惣菜が出てくることはほぼありませんでした。
お味噌汁の味噌も手作りし、梅干しもベランダに干して、白菜の漬物もお家で漬けてぬか床でスイカの皮を漬物にしてみたり。

テレビで見たレシピや、雑誌で見たレシピなどいろいろ挑戦していました。
母に作れないものはないのではないかと思わせるほどでした。
実家に帰った時のご飯はいつも楽しみです。

とにかく話を聞く、聞き上手な母

今でも母のイメージは、父を立てる九州女です。
私が子どものころ父が残業の日、毎回私たち子どもには先に夕飯を食べさせて、母は父が帰ってくるまで待っていました。
食事中は父の話をずっと、うんうんと相槌を打ちながら聞いていたのが印象的です。
私も洗い物を手伝いながら、学校であったことや仕事のことをよく話していて、母は聞き役に徹してくれていました。
叔母が遊びに来たり祖母がまだ元気だったころ、母は相手の話を聞く天才でした。
もちろん、実家から離れて社会で働くようになってからは、私も母の話を聞く側になっていきました。
今はほとんど実家に帰ることがなくなったので、月に一度は必ず電話をして声を聞くようにしています。
元気そうに話をする母の姿を想像しながら、私も自然と笑顔になっています。

母の猪突猛進なところや、世話好きなところ、ふとした時にちょっと抜けているところは、私も受け継いでいるところだなと感じています。
ふとした時の言い回しが母にそっくりな時は、自分でも驚いています笑

ここまで読んでいただいて、ありがとうございます🍀
素敵な出会いになっていたら幸いです💘


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