亜也可.Kの宇宙

地球を遊ぶ人

亜也可.Kの宇宙

地球を遊ぶ人

最近の記事

今は過去であるいは未来だ

自分ひとりの単体の経験や出会いが 誰かのためだったり、誰かの元に繋がっていくことがある。 全ての起こることは自分のためであり、誰かのためでもある。 うっすらと、でも人生が交差した人、そんな人たちのことをよく思う。 彼らは今どこにいるのだろう なにをして、なにを思い 誰を思い生きているのだろう 微塵も思い出さなかったこと、完全に忘れてしまっていたことが何かの拍子に蘇ることもある。 うっすら靄がかった記憶を引っ張り出すと、あまりの眩しさに目が眩むようで、フラッシュバックと

    • 完成とはつまり、永遠の未完

      言葉を書くことは時々拙い。 確かに、言葉についてなにも知らない。 おいしいものを食べれば“おいしいね” なにかが故障したときに“壊れたね” 確信をもって伝えられ、相手にも伝わっていると思えるのはせいぜいこのくらいだろう。 同じ音を持ちながら、じつは何通りもの微妙な違いを持つ言葉にいつも恐る恐る言葉を連ねる。 言葉とは各々の想像の中で成り立っている。 言葉ひとつとっても、それぞれの宇宙の中で独自の膨らみと繋がりを持つ。 同じ言語を話すお互いでも、まったくもって違うことを話

      • 全ての出会った人、これから出会う人

        どんな場所に行こうとも、その印象の最後に残るのは人であり、時に全ての色を塗り替えてしまう。 誰かがある空間に残した香りのように、微かなようでいつまでもそこに、ひっそりと強く存在し続けている。 印象的な人。 フランスの早朝、まだ暗い中わたしたちを迎えにきてくれたタクシーの運転手は、人生の喜びも、そして悲しみも数えきれないほどに経験してきたことを想像させる。 快適で綺麗な4WD、清潔な白いシャツときちんと締めたネクタイ、プレスの効いたスラックスとクラシックだけれど小洒落た装い、

        • 北国に生まれて

          一年という暦上でとても長い時間冬という季節を過ごすことは、じっと息をひそめて深呼吸を耐えているかのようだ。 春の間際は特に忍耐が必要となる。 南の方では色鮮やかな日差しの元で季節の花が咲いただのと言っているのに、北国では世界はまだ白く、そんな時は決まって、なにかじりじりとした焦りのようなものと息苦しさが迫ってきた。 人は産まれてくる前に、全てを自分で選んでくるのだと聞いたことがある。 “ならばなぜ自分はこの地を選んだのだろう” なかなか進まない雪解けを待つときや大雪の日は

        今は過去であるいは未来だ

          はじまりは、こんなふうに

          旅が好きだ。 と、言ってしまうのが嫌だ。 なぜか なんでだろう でも大概こういうときって“旅行”が好きだ。じゃなくて、“旅が好きだ。と言うきがする。 かなり自論だけれど。 そしてどちらかを言わなければならないなら、“旅”が好きだ。この後者を選ぶだろう。 なぜか 別に旅なんて好きじゃない人もいるだろう。 わたしだってゲームは好きじゃないし、長距離マラソンも今のところ一生やらなくていいと思っている。 だけどそんな人も、この文章を読んでくれたら嬉しいなと思う。 それは“

          はじまりは、こんなふうに

          いま、どこにいる?

          多分年を重ねてある年齢を超えたときから、心と頭は未来か過去に生きることが長くなったきがする。 もしくは自分ではない他人について考えることが増え、ふときがつくと自分という軸がわからないようなきがして、今この瞬間を楽しむ方法をすっかり忘れてしまっていた。 原因がよくわからない心の空洞。 ”いまを生きられていない“そんな言葉が浮かび上がってきたけど、いまを生きるってなんなんだろう? 自分っていままでいったいどこにいたんだろうな。 ずっとここに居続けていながら。 ずっとここに居続

          いま、どこにいる?

          全て正しくて全てが間違っている

          結局全ては正しく全ては違っている。 ひとつの根源があるがそれはすぐには見えない。 そのひとつを目指すために様々な入り口がある。 だけどその入り口だけが世界ではなく、存在する入り口全てが世界であり、その世界はやがてひとつのところへと向かう。 今できることは受け入れて全ての可能性を探ること、否定せずにあらゆる側面を見ること。 ひとつに尖らずに円を描くように意識していくこと すなわち愛を持って生きること。 なにもかもをフラットに見続け、情熱は失わないこと。 神というのは全て、全ての

          全て正しくて全てが間違っている

          大いなる偏見の中にあるもの

          エネルギーの交換ってあるんかな? やっぱ、あるんだろうな。 書き終えた手紙を読み返すと、意外と面白かった。 って聞くと、自分の書くことが面白いと思ってる奴に思われるかな。 まぁ、もしかしたらそうなのかもしれない。 だって少しでも、ほんの少しでもそう思ってなかったらこんな風に自分の頭の中を書いたりするだろうか。 なんだかんだみんな自分のことが好きなんだ。 自分のことを書くと嬉しくなるし、自分の話をすると饒舌になるもんだよね。 自分が書いた手紙には自分のことばかりが書いてある

          大いなる偏見の中にあるもの

          本当にそれって信じられるの?

          ”信じたい“と人は言う だが本当に信じているだろうか? 信じること 信じ切られるだろうか? 信じる心が失われると失われるものがあり、わたしたちは物体ではない。 信じることとは目に見えない行為である。 その行為が行動になり目に見えるようになるかもしれないが実態はない。 また人は集団の中で意識を感じとる。思っているよりも感覚や五感、六感を感じ取って生きていて、そういった心で生きているわたしたちはつまるところ物体ではないのかもしれない。 そもそもわたしたちが言う信じるってなん

          本当にそれって信じられるの?

          Do not think

          考えなくても、望みはわかる 感覚が知っている もしかしたら今はぼんやりとしたイメージかもしれない それでも何度も浮かんでくるものがあるなら もう見つけている 思考はもう止める やりたいこと達成したいものが大きいとき 心の中ではわかっているのかもしれない それを必要とする人がいるということを それをやる価値があること だから心からの望みなら遠慮などしなくてもいい もしくは自分に遠慮をする、そんなふりをしながら自分に制限をかけて喜んでいるのかもしれない たとえそれが辛く苦しく

          Back to Kids

          こどものころときめいていたもの 旅や映画、映画館、ロングドライブ、海外 特に土曜の午前は最高だった。 旅番組で憧れを膨らませ、映画情報で知らない世界を覗く。 学校がない日の無限に広がる世界への入り口。 もちろん当時はそんなふうには考えてなかったけど、それを見るととにかく心が躍った。 ロングドライブも最高だった。 早々と流れる景色と、どこまでも続く道。 時折聞いたことのない曲がBGMになり、それがどれもすごくかっこよくて、音と景色に呑み込まれた。 これはわたししか知らない

          パズルのピースがハマるような出会い

          映画が好き、歌が好き、好きなものの中には自分を形どるピースがある。 ジャンルではなく、ピースなんだ。 特別その分野に長けているわけではないし、そこに長けたいわけでもない。 自分だけの“あの作品“”あの歌““あの時間のあの風景”を見つけたことがあればわかるだろう。 それが何にも変えられないほどの喜びであること。 まだ知らなかった見つけられなかった自分を見つけたような心地いい感覚。 “あぁこんなとこにも居たんだ。お待たせ、出会ってくれてありがとう。” 人生で出会う好きなもの。

          パズルのピースがハマるような出会い