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全て正しくて全てが間違っている

結局全ては正しく全ては違っている。
ひとつの根源があるがそれはすぐには見えない。
そのひとつを目指すために様々な入り口がある。
だけどその入り口だけが世界ではなく、存在する入り口全てが世界であり、その世界はやがてひとつのところへと向かう。
今できることは受け入れて全ての可能性を探ること、否定せずにあらゆる側面を見ること。
ひとつに尖らずに円を描くように意識していくこと
すなわち愛を持って生きること。
なにもかもをフラットに見続け、情熱は失わないこと。
神というのは全て、全てのものに宿る。
自分にも宿っているのだとしたら待つのではなく自らの精神がその存在に近づくこと。

何かの終わりも始まりも、それはまた次の始まりと終わりであり、それぞれの命あるものが肉体と心が離れる日まで螺旋階段のようにそれは続いていく。

その日までになにができるのだろう。
その前にそもそも何かしなければいけないのだろうか。
この問いかけも文章の始まりの仮定にのっとれば、何かすべきであるし何もしなくてもいい。

そんな自分次第で如何様にもなっていく世界に生まれ生きているのだ。
自分の人生を創造していくことが可能だけれど、全てに身を委ねることももちろん可能だろう。
あまりにも全てが自分次第で、宙ぶらりんな心地がしてくる。
自由であることを求めて生きていたのに、いざ目の前に自由というものが広がるとどうだろう。

全ては自分次第であり、今それぞれが体験しているこの瞬間はそれぞれが生み出した今なんだ。
そしてその今は過去と未来をつなぐ一番新しい瞬間だ。
だからなんだって話、書きながら自分でも思うけど。
何かしてもいいし、なにもしなくてもいい、これからも。
そんな世界で何を大切にして、どう生きていこうか。


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