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大いなる偏見の中にあるもの

エネルギーの交換ってあるんかな?
やっぱ、あるんだろうな。

書き終えた手紙を読み返すと、意外と面白かった。
って聞くと、自分の書くことが面白いと思ってる奴に思われるかな。
まぁ、もしかしたらそうなのかもしれない。
だって少しでも、ほんの少しでもそう思ってなかったらこんな風に自分の頭の中を書いたりするだろうか。
なんだかんだみんな自分のことが好きなんだ。
自分のことを書くと嬉しくなるし、自分の話をすると饒舌になるもんだよね。

自分が書いた手紙には自分のことばかりが書いてあるようなきがして、なんとなく申し訳ないきぶんにもなるし相手にもっと興味を寄せた内容を書けよなって思ったりもする。
だって相手からの手紙が自分のことを思った内容だったら嬉しいし、貰うならそんなものがいいかもしれないな。
最高にわがままな自分がいるけど、でもどんなことを書いていても相手の顔が頭の隅にいて、笑って話を聞いてくれている感じがするのは、これってやっぱり独りよがりではないんじゃないか、なんて。

書く手が止まらないし、書きたいことがなんだか思ったよりいっぱいあった。
それは話したいことが本当はいっぱいあったってことと同じな気がする。
横だか向えに宛名のあなたが座っているか立っていて、わたしは自分の日々の細々を語る。自分で書く自分の話はつまりはあなたと話したい、聞いてほしいこと。
本当は会いたいのかもしれない。
でも時々、書くことの方が上手く自分の中身を伝えられる気がするんだ。
沈黙も許される、マシンガントークも許されるある意味で独壇場のような場所が。

自分のことを書くと嬉しくなるし、自分の話をすると饒舌になるもんだけど、あなたにだから話したいのだとも思う。
わたしは大いにあなたとわたしを、というかわたしの考えを共有したいんだ。
好きな人のことは知りたいみたいに、その逆のような。

今日はとても気持ちが良い日で、好きな音楽を流してベランダに出て、空と雲が見えるし陽の光も浴びられるし、川の流れもBGMに加わっている。
そして隣だかどこだかとにかく近くに、宛名のあなたがいるきがする。
時に、というよりだいたいが大いなる偏見を含むかもしれない話をしながら、自分の中にある中心みたいなもの、大切だと思われる、そんなものを、自分自身をシェアする。

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