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齋藤綾嘉と言う人間/自分自身と向き合う

はじまりの晩餐

Leonardo da Vinciが描いた「最後の晩餐」は
有名だ。イエス・キリストを囲んで描かれる
その絵画は誰もが一度は目にした事があるだろう。わたしはアダムとイブが禁断の果実と呼ばれる林檎を食べた夜をイメージして描く。それは「はじまりの晩餐」そこに人間は存在しないが解き放たれた罪と罰が煙の様にその果実を纏う。知恵は美しく儚くそして罪深い。故にこの果実は美味しいのだ。一度食べればまた欲しくなる。人間は罪を犯し罰を受ける。回れ回れ、180°世界をひっくり返す。

*Apple series

Human researcher, psychologist,
creator, digital artist:   Ayaka Saitou

人間の依存性、中毒性を表現した作品。罪とは何か?罰とは何か?何故人間は思考する?知恵は何の為に在るのか?わたしは180°回して「世界を変えたい」それを知るkeyをあなたに1つ差し上げます。


春を待って

芽吹く春を待ってわたしは願う。また花が咲きます様に。季節が巡り1年がまた訪れるのは当たり前では無い。だからわたしは春を待っている。あなたが来るのを待っている。甘い甘い焼菓子を焼きながら。

Human researcher, psychologist,
creator, digital artist:   Ayaka Saitou

マドレーヌと言う曲を使用したのにも意味があり、娘が3月(春生まれ)その娘がはやく帰って来て欲しい。凍てつく冬の終わり(わたしの心の寂しさ)そして(春を告げる)芽吹く花々。甘い焼き菓子(マドレーヌを焼いて)お帰りなさいと言いたい母親の気持ちを表現した作品。そして1年はそれの重さ(長さ)を表現し約4年の歳月をその絵の中に込めました。

もうすぐ娘は帰って来る。だからこそ
様々な想いが込み上がってる。


興奮、刺激する

人間は常に刺激を求める生き物です。誰もが安定や安心を望んでいますが、その一方で、それだけでは生きていくことはできません。ストレスですら刺激の一種であり、それが多かろうが全くなかろうが、人生にとって良いものではありません。わたし達は感情や動き、さまざまな刺激を通じて、自分が生きている事を、生きたいと実感する事ができます。人間はとても面倒な生き物です。飛ぶことを夢見て...

Human researcher, psychologist,
creator, digital artist:   Ayaka Saitou

痛みや苦しみや葛藤など、人間にとって回避したいものでさえ人間が生きる上で必要なものの例え。それは多ければ死に近づく事にもなりまた、
全く無い事は心が躍動しない、つまり「人生は楽しくない」になってしまう。どの感情も一定以上必要だと言う事。無くて良い感情は無いと言う事。ありのままの自分で生きるとは?を皆さんに問う。


あれから、自分自身と向き合う時間を過ごした
わたし。正直物凄く不安になって「何がなんだかわからない状態」から「もうどうしていいかわからない状態」を超えて、問題を1つずつ。横に置いて考える。

「考え過ぎている自分」に気づく
確かに考える事は必要で不安になる事も人間ならば至極当然なのだけれど、この「考えすぎる」は
ある種の「要らぬ不安要素」を作り出す事にも繋がる。そこで揺れ出した感情が膨らみ過ぎると爆発を起こした様に「周りが見えない」

わたしは他者には「考えていない様に見える」らしい。しかし実際は「考え過ぎている」
以前もお伝えした様に「思考停止状態に見える様子」=「ぼーっとして見える状態」はわたしの中で「思考が拡散し停止状態とは真逆の駆け巡っている状態であり」そのスピードは早すぎて気がついた時には「答え」が出ている。

人間は見た目ではわからない事が多過ぎる。
ある人から見て思う事はまたある人から見ると
違う風に感じるものだ。人間は常に自分の世界を通して他者を見ている。

ロダンの「考える人」あれは「地獄の扉」と言う
何人もの人々を描いた彫刻の真上にいる人間の様子を切り取った彫刻だ。「考えている人」と
titleがついている為多くの人間は「考える人間の姿」だと見ている。しかし人は考える時にあんなポーズをとるだろうか?なんて考える人間もあまりいないのではないだろうか?と齋藤綾嘉は思う。ロダンの彫刻のポーズはどれもが筋肉の盛り上がりを強調する様に敢えて自然な人間の体勢角度になってはいない。

そのポーズを実際にしてみると「きつい、つらい」と言う事がわかる。自然体で無い事の理由とその意味はロダンの中にだけに存在するだろう。わたしの話も誰かの話も全ては憶測に過ぎないからだ。

その地獄の扉の真上にいる人間の姿はその真下にいる人間達を観察している様にも見える。同じポーズであっても「その人間がどこにいるのか」で「考える人」でもあり「観察する人」にもなると言う事の例えだ。

またはその苦しむ人間達の様子を眺めて
「楽しんでいる姿」かも知れない。要するに本人以外には「誰にもわからない」と言う事であり
わたし達は「考える人」と言うtitleから考えている人間の姿だと思い込んでいるだけなのだ。

実際の所は「何も考えていない人」であっても
おかしくは無い。よって人間の内側は目に見えない為いかようにも見えてしまう。

考え過ぎているわたしが考え過ぎるのをやめた所で他者には「何の変わりもない」のだから

要らぬ不安要素を自ら作りだす事の必要性が無い
となると思わず笑ってしまった。

自分自身と向き合う事はsimpleだが難しい。
考え過ぎて沼る事もある!←齋藤さんあるある

自分自身と向き合う事をわたしは
今一度考えてみる。

思考は止まらないが時に立ち止まり
周りを見渡す事は必要だとつくづく感じるのだ。

2024年11月15日

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