見出し画像

言葉

人間は生まれていつしか言葉を覚え
それぞれ国は違えど言葉を使う様になる

言葉とは何なのだろうか?
最近、良く考える

言葉は表現で
言葉は伝える手段で
言葉は誰かとのコミュケーションで

言葉は芸術で
言葉は感覚で
言葉は心だ

言葉は鏡で
言葉は武器で
言葉は布で
言葉は顔だ

言葉は糸で
言葉は音楽で
言葉は夢だ

言葉は薬で
言葉は想像で創造だ

そんな言葉は生きている

きっとまだまだあると
思うのだけれど

一言で「言葉」とは何ですか?
と聞かれたら

わたしは「生きもの」だと
答えるだろう

良く齋藤綾嘉が言う
「人の話は生きている知識」
これは、言葉の連続体だ

人の話=言葉の連続体
そして個でしか無い人間は
この世に1人しか存在し無い

故に、「人の話」は同じ様で
「同じでは無い」のだ

例えば同じ事について3人から
話しを聞いたとする

似たような感覚、似た様な表現
繋がる箇所は当然あるだろう

「同じ事」について聞いているのだから
しかし、全く一言一句一緒だったか?
となればそれは違う

3人で口裏を合わせない限り
(台本が用意されて丸暗記)
の様な事がない限り

「同じ表現」でも言葉は異なる
それぞれに発する言葉には「その人間」
の人格があり、そこにある「自分の世界」
その全てから言葉は生まれる

そして言葉は言葉にならない時もある
自分の中に「言葉」があっても
出てこない

言葉は変換されて言葉以外のものに
なり「言葉」の役割を果たす時さえある

その様に言葉とは言葉であって
言葉ではないのだ

なら、「生きているもの」
生きものであるとしか言い様が無い

何故わたしがそう思うか?
と聞かれれば

わたし自身が「生きている」からだ
生きているものから発生する全ては
生きているものでしか無い

なら、「言葉」もそうなのではないだろうか?
とわたしは思うのだ

ちゃんと言葉で言わないと解らないでしょ!
この台詞
一度くらいは耳にした事があるだろう

「全て」が言葉で語る事が
可能ならそうなのだろう

しかし、わたしはそうは思わない
「解らない」事はまた至極当然でもあるからだ

例え、正しい言葉で相手に伝えたとして
「全て」を理解出来るか?
「全て」が正しく伝わるか?

いいや、そうでは無い
実際、そうだ

では
ちゃんと言わなきゃ解らないでしょ!
この台詞もまた「ちゃんとした」言葉に
なっていないでは無いか?
と思うよ

解らない事は解らないし
知らない事は知らないし
上手く言えない事は言えないから

「全て」を言葉で
「全て」の人が理解する

それはもう同一で無い限り
不可能だ

それ程までにいつも日常の中に
溢れている「言葉」はとても深い

ある人は言っていた
「何者でもない人たちは自分の言葉を持たない」
のだと

何者でも無い?
わたしはそこに疑問を抱く

「一つの事を極められない者は何者にもなれない」のだと

一つの事を極めなければいけない
必要性はどこにある?

何者かにならなければ
生きている意味も価値も無いと
言っている様なものだ

何者にもなれない?
わたし達は人間で生き物で自分だよ

その様な意味で言うなら
自分以外の「何者にもなれない」だろうね

自分の言葉を持たない人間など
いる筈は無い

それは、悩みが無い人間がいないのと
一緒だ

生きていれば
何かしら「ある」ものは「ある」
ただ他人が知らないだけだ

例え周りを見てそう感じたとして
「自分の言葉を持たない」
何様だよ?そんな事ある筈が無い

そしてそれに共感する人間も当然いる
だからこそそれに共感しない人間も
当然いるのだ

わたしはやはりキミが嫌いだ
それは以前わたしが書いた記事の
自分の真逆にいる人間の話しに通ずると感じる

キミとわたしはきっと真逆の
所に立っているのだ

真逆の「世界の中で生きて」
その世界から見ている

だからわたしはキミの言っている事に
共感出来ないし、腹が立つし、嫌いだ

それもまた仕方ない事だよ
人間の「どう思うか?」なんて
誰かに強制出来ない

だから思う、きっとキミもわたしに
対して同じ様に思うのでは無いだろうか?

真逆にいるのだから
当然だ

真逆にいようがいまいがそれは同じ
皆「自分の世界の中」で生き
ものを見ている

それは同じだ

だからどうした?と言われれば
どうもしないよ

そうだろうね、わたしはそう思うな
と伝えたいだけだ

何者かになる必要なんて無い
もう「わたしはわたし」だし
「あなたはあなた」だ

わたしはそう思う
どんな事にも意味が無い
価値が無い

わたしはそうは思わない

ある人には価値ある事は
ある人には価値が無い事でもあるからだ

決めるのは自分で
他人には決めれはしない

「言葉」は誰のものでも無い

発言の自由があると言いながら
人々は発言の自由を許さない

力を持つ者の「言葉」の威力は
圧倒的で皆フィルター越しに見ている

フォロワー数、動画の再生数、
数、人はその数でその人を判断しがちだ

数は金で買える
全ては金で買える

愛さえ金で買える

なら金で買えないものって何?
現状のこの世界では「自分の信念」
さえ金に変わる

でもわたしは思う
わたしはわたしで
わたしの全ては金で買えない

わたし自身が売らないからだ

売ってるものは買える
売って無いものは買えない

当たり前の話しだ

金で全ては買えるが
金で全ては買えない

いつだってこの二面性があり
全ては表裏一体だ

娘はわたしに言った
「知らない事は知らないよ」

当たり前の話しだ、だからこそ
「知ってる事は知ってる」
になる

知ろうとしなければ知る事は無い
見ようとしなければ見える事は無い
聞こうとしなければ解る事は無い

全ては当たり前の話しだ

生きている者でしか無い
齋藤綾嘉は言おう

それではダメなのですか?

simpleな事は実にdifficultだよ
皆「難しく」したがる
けれどそれは「簡単で単純で」
simpleだ

故にいつだってdifficultになりうる

わたしの中にある「言葉」は
わたしの全てで表現され
わたしの何かに変換される

言えない言葉も
言いたい言葉も

全ては、わたしの中で生きているよ

全ては、あなたの中で生きているよ

わたしはそんな「言葉」について
考える

この記事が参加している募集

今こんな気分

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?