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父への弔辞を書いてみる

間質性肺炎で救急入院となった父、主治医の病状説明書によると急性増悪の致死率は50%、延命治療も行わない方針とのこと。

本人は入院に際し持ってきてほしいものリストを事細かに母に指定するほど頭はクリアなようですが、電話口の呼吸はゼイゼイしていてかなり苦しそうです。

病名を告知された時から寿命は5年ほどと聞いており、告知からは5年をすでに経過。風邪やインフル、コロナにもかからず、昨年からは介護用ベッドを導入し、在宅酸素療法で何とかQOLを下げずに生活してきましたが、ついにここまできたかと心の準備を進めています。

誰も全く興味がなく、面白いものではありません。また、大規模な葬儀を行う予定もないため、弔辞を発表する場もないと思われますが、父との思い出を整理するためにここに書かせていただきたいと思います。

書く前に感じたのが、私は実家に0才から20才頃までいたため、20年間一緒に生活し、親元を離れてからさらに20年ほどが経つのですが、思い出せるエピソードが10くらいしかないのが衝撃ですね、、

自身が5才の娘を育てていますが、娘がそうなると思うとかなり切ないです。昭和のモーレツ会社員であった父と違い、育休を取得し娘とかなり長い時間をとって育ててきてはいますが、娘もそうなる可能性があると思うと、今から心が痛みます。

ちなみに我が家の家族構成としては、中学高校とやんちゃした後、紆余曲折を経て手に職をつけ、現在は素敵な夫と息子と暮らす4才年下の妹がいます。

私は地元の高校から都市部の大学に入り、そこから企業に勤めています。

母は父の勤務先に事務職として入社し15才の年の差を乗り越えて社内結婚、結婚後は実母の看病のため退職を余儀なくされ、父の転勤のため慣れない関西で専業主婦+パートタイムジョブで二児を育てた苦労人です。

父は地方出身で、昭和の初めのほうの生まれのため、兄弟はかなり多かったとのこと。長兄・長姉に育てられたようなものだそうです。家は裕福でしたが父の父が戦死したため、父の母は女手一人でたくさんの子供を育てたとのこと。家にお金がないため大学には行けず、地元の工業高校を卒業し、化学品メーカーに入社。大卒の人との格差に苦しんだようです。化学品メーカーから損害保険会社に出向し管理職を勤め上げ、その後定年となりました。いろいろあって少しでもお金を稼ごうと東京に出稼ぎに行ったりしていましたが、特別な趣味や友人も少なく、iPadで麻雀ゲームに熱中する日々。間質性肺炎と診断後も地方で肉体労働をするなどして肺の状態を悪化させました。

弔辞に用いたい具体的なエピソード

私が幼稚園児の頃、アスレチック公園で水辺の渡石で落ちて自分のズボンと靴をびしょ濡れにさせたこと。母も私の着替えは持ってきていても、まさか父の着替えは持ってきていなかったはず。父の服は濡れたまま家に帰ってきた記憶があります。

子どもを乗せる専用の荷台のなかった自転車で小学生の私を後ろに乗せて、私の足が後輪に挟まり、骨にヒビが入りましたね。周りにいたおばちゃんたちに詰められたと後で聞きました。

こちらも小学生時代、フットサイクルというサドルのない一輪車のようなおもちゃを買ってきて、トライすると子どものすねがあざだらけになり、すぐ捨てることになりましたね。

昔は父の会社の行事が盛んで、会社の運動会に家族で参加しました。ビンゴでカトラリーのセットが当たったり、うなぎを掴み取りしたことを覚えています。

タクシーで私が吐いたとき、父が手で受け止めていたような記憶があります。

お腹がすくとイライラするタイプでしたね。みんなで心斎橋の有名店で外食しようとしたところ、御堂筋パレードの混雑ではぐれ、私と母、妹はお店に来ているだろうとお店で飲食して帰ったところ、父はまっすぐ帰宅していたこともありました。

中学生になった私が眉毛の下の部分を剃った時、真っ先に気づきましたね。

食事の時間はかなり憂鬱でした。粗相のないよう張り詰めた雰囲気のなか、妹が緊張に耐えきれず、手元が狂ってお茶をこぼすようなこともありました。

昭和のサラリーマン、夜も遅くまで飲んでいましたが、小学校低学年の頃は土日に電車で行けるいろいろなところに連れていってもらった記憶があります。特に印象的なのは武田尾の河原や廃線ハイクです。宝塚ファミリーランドにみんなで行って、夜は宝塚ホテルのバイキングに行くような贅沢も一時はしていました。

妹が美容外科勤務で退職した際、給与未払いで労基に言います、と現地で冷静に伝え、すぐに残額が振り込まれたと聞きます。

やんちゃをしていた妹が警察にお世話になった際、何度か迎えに行ったとも聞きます。引き取る際は堂々とした態度であったと。

酔っ払って帰ってきて、縫い物をしていた母の針箱を蹴っ飛ばし、まち針がそこら一面に散らばった場面は今でも忘れることができません。

携帯やポケベル、留学など、未知のデバイスや機会を持つことを許可してもらいました。また卒業旅行の欧州バックパッカー旅行のお金を貸してもらいました。考え方が新しく、当時発売してすぐのウォッシュレットを自宅トイレに導入したのも印象的です。

また、結婚挨拶時に収入の少ない男性と結婚することを反対しなかった(私も妹も両方)のもすごいと思います。娘の決断をリスペクトしていることが伺えました。

ここに書けないこともいろいろとありますが、私は今まで育ててくれてありがとうございましたということを一番伝えたかったです。兵庫県の片田舎から出発し、複数のキャリアを経て今はグローバル企業で働けているのも、大学時代に留学に行かせていただいた経験がベースとなっています。


父からは、残りの家族三人仲良く、という言葉がありました。

その後父は危機を脱し、それでもまだ医師からはまだ気は抜けませんですと言われており、数ヶ月命が持つかわかりませんが、私たち家族は最後に伝えることはお互い伝え合えたので、たとえ死に目に間に合わなくても後悔しないと思います。


おかげさまは父は快方に向かい、弔辞を読む機会はありませんでした。しかし、こうしてまとめることで父との具体的なエピソードが整理され良かったです。



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