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好きでなくなっても結婚したからにはずっと一緒にいなければならない、それはモラル上の義務なのか?

ランチタイムに行くカフェで、私の注文はいつも同じメニュー。

行く店も、メニューも豊富にあるのに、一度好きになると嫌いになるまで同じ店で同じものを頼んでしまう。お昼ごはんについて考えるエネルギーを割くことを要しないのは楽だし、お気に入りの店で好きな物を食べることは至福なのだ。

しかしこれを続けると、ある日、急に食べることが出来なくなる。例えば牡蠣は体質に合わなくなったし、好きなメニューも好きなのに食べることが出来なくなるのだ。

そう、生理的に無理となる。
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固定した仲良しグループにいると楽で、友達の輪を増やそうとはならなくなる。

しかし、望まないところまで距離が近くなり過ぎると、相手のズルい面や得をしたい心理に触れて、少し離れる。

わざと嘘を告げられたり、敢えてお土産飛ばしするなどの意地悪をされて、引いてしまうことがある。

それは自動的に拒絶する感じ。

拒絶した時、相手が私が引いていると理解して距離を取ってくれる無言の関係だと、関係を断ち切らず続けることが出来る。そしてお互い、受け入れ合う関係として長年の友なる。

しかし「なんで?」「急にどうしたの?」と追われると、私はより遠くに逃げたくなる。にもかかわらず逃げると更に干渉される。

そして、嫌いになる。その後の付き合いは、表面上は取り繕っても、私の心の中では既に終わっている。だから、気づいたときには他のグループにいる。

それを知人は「浮気」と呼ぶが、私の中ではとっくの昔に別れていたよ。
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生理的に無理だったり、嫌いになるのが、職場の知人であればよい。それでも振り切れば良いのだから。
しかし妻や夫となると、一筋縄ではいかない。逃げ切れないし、スルーでは済まない。

例え、どんなに素晴らしいパートナーであっても、献身的に貢献してきてくれた相手であっても、
急に生理的に無理になり得るし、
迫られて追いかけられたら、嫌いにもなる。

それは私にとっての牡蠣のように。

苦手や拒絶は心の自然な反応で、「彼女だから」「妻だから」という崇高な理念の元でも、譲れるものではない。
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人様の不倫、浮気のニュースにおいて、したほうが加害者として、社会的に抹消されていくのを見聞すると、

「不倫」「浮気」の次元ではなく、もしかするともう彼女の中では既に終わっていたのではないかと思う。

例えそれが数回目で、婚姻期間が長くとも。

もちろん、私は浮気は絶対に良くないとは思う。しかし既にパートナーへの思いは皆無で、浮気の認識すらなく、パートナーはいない人だったのではないかと思う。

それは口にできない牡蠣料理が食卓に並べられていても、食べることが出来ないから無いものとして見ているのと似ている気がする。
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心の中で終わっている人をパートナーゆえ愛さなければならない義務を社会から望まれ、掟破りには仕事をすることが許されない。

生理的に無理でも、嫌いでもパートナーゆえ愛さなければならない。

そんなこと、可能なのだろうか?

誰が悪いとか、正しいとか、
浮気は悪い、悪くないとか、
そういう問題ではなくて、

冷めてしまい愛せなくなった相手と別れることも出来ず、繋がっていなければならない暮らしは、
私には耐えられないと思う。

それは、食べることが出来ないものを、一度選んだがためにずっと食べ続けなければならないことのように。

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また「アクマのハルカ」、読んでくださった皆様、誠にありがとうございます。皆様のお陰で完結まで到着出来ました。

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