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人を救うのは誰かの正義感だったりする

待ち合わせの映画館に向かう途中、横断歩道を渡っていると、救急車のサイレントともに「救急車、左に曲がります、避けてください。」との声が響く。私はピンヒールだったがそれでも駆け足で渡った。しかし、途絶えることのない人並みが走行を妨げていた。「大丈夫かな。」と思いながら数メートル歩くと、目の前が血まみれだった。人すら見えない。バスの運転手ともう一人が何かを隠していたが、見るに絶えず、無意識に早足に過ぎた。後ろから、「救急車停まれません。路上駐車の車、避けてください。」との声がした。

私は頭の中が真っ白だった。きっと、休みの日のお出かけでこんな大変なことになったのだろう。楽しみにしていただろう休みがこんなことに。と、胸が張り裂けそうで、涙腺から涙が溢れた。

同時に、ずっと昔に亡くなった家族のことを思い出した。無過失で理不尽に命を奪われたあの日の光景が、同じ様だったのではないかと、それなら赦せないと。
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大事な人を失った怒りや憎しみは、年月が掻き消してくれるものではない。もう30年以上が過ぎているがそれでも溢れる苦悩は、事故の現場を目撃した時やテレビのニュースでフラッシュバックする。

その時、私は一瞬、茫然自失となるが、怒りを爆発させることがないのは、ある弁護士の先生が救ってくれたからだ。苦悩とともに湧き上がるのは、その日の光景。だから、あらゆる感情を鎮めることができる。
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大事な人の裁判の時、裁判官は半分、眠っていた。25年前の裁判では裁判官へのアンケートもなく、真面目にお仕事をして下さらない裁判官がいるのも珍しいことではなかった。その時、私たちの弁護士の先生は、「幼い子供が2人いるんだよ。他の事件と一緒くたにされては困る。キチンと準備書面を読んでくれ。」と裁判官を怒鳴ってくれた。その真っ直ぐな正義感を思い返すと、体中を血となって流れる、悔やみきれない思いが、引く。

決して奪われてはならない、悔やみきれない悪夢の中に沈まないでいられるのは、あの先生の正義感のお陰だろう。

憎しみに染まらず、生きていけるのは、幸せで、それは先生の正義感による救いだと思う。
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夜、眠ろうと思うと、映画館に向かう途中の事故のことを思い出す。どうか、無事であるようにと。

そして、私は家族のことを絶対に忘れないし、自分を救ってくれた人のように誰かを救えるような正義感は、いつも持っていたいと思う。それは自分にメリットがないからやらないではなく、また、ご機嫌伺いやごますりに終始する生き方でもない。人の大切な思いのために、怒ることのできる人間でいることである。

とても嬉しいので、嬉しいことに使わせて下さい(^^)