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相手に思いを馳せること

先日、日本聴覚障害学生高等教育支援ネットワーク
通称「PEPNet-Japan」のシンポジウムに参加してきた。

普段はそれぞれの大学で活動している聴覚障害学生や支援活動を行っている学生、それをコーディネートする職員が一同に会し、自分たちの大学での聴覚障害学生支援の現状について報告している。

私も普段は出会えない学生たちと出会い、言葉を交わすことができ刺激をもらった。

そんな中、今回のシンポジウムの「前日企画」というものにも参加した。

聴覚障害学生・支援学生・コーディネーターという三者の視点から聴覚障害学生支援における課題について話し合い、これから大切にしていくべきこととは何かを提案しあうというワークショップだった。

このワークショップで改めて感じたこと、それは、

目の前にいる相手、自分とかかわる相手に思いを馳せること、すなわち、共感性や想像力を働かせることこそコミュニケーションの本質なのだろうということ。

ワークショップでは、聴覚障害学生支援の中で出てきそうな課題についてグループでどうすればいいか?ということを話し合った。
それはノートテイクやパソコンテイクにおけるスキル的なものではなく、支援について利用学生、支援学生の間で互いに言いたいことがあるけど、なかなか言えない。どうすればいい?というものが中心。

つまり、関係性の中で生じる課題にどう向き合うか、ということ。

課題設定されているおかげか、普段は言えない、聞けないような本音を出し合うことができたと思う。
実際に聴覚障害学生から出た気持ちは、

支援してもらっているので、あまりこうしてほしいという要望のようなことを言うのは、なかなか難しい。見なくちゃいけないかなという感じで「見てる風」にしてることもある。役に立たないというわけではなく、直接話を聞くことに集中した方が情報取得がスムーズなことがあるから。

支援学生から出た気持ちは

自分が十分に情報をテイクしきれていないことは自覚があるので、これでいいのか不安になることもある。テイクの画面や紙を見ていないことがあると、特に。そのときには、正直、やっているのに…自分て意味ある?という気持ちになるときもある。

なかなか踏み込んだ議論をする中で大切な気持ちを聞くことができた。

お互いに実は複雑な思いを抱えて支援したりされたりしている。
けれど、なかなかデリケートで発言できない。
そんな現実があるようだ。

どうして「私のテイクどう?見てなかったみたいだけど、わかりにくかったかな?」とか「情報を要約しすぎず、できるだけ言っているままをテイクしてほしい」と言えないのだろう?
実際、「意を決して」尋ねてみると、お互いの本音が分かって安心したという意見もあった。
なぜ、「意を決する」くらいテイクの内容について踏み込んだ会話をするのをためらうのだろうか?

そこには、「してもらっている」「してあげている」という関係性が無意識的に発生しているということが関係しているように思った。
「フェアな関係」を掲げて支援活動は行われる。
実際、支援する学生は純粋に支援したいという思いで活動している。
しかし、支援するということは「90分間時間的拘束」をする、されるという現実を孕む。
しかも、テイクというのは経験上、かなりの重労働だ。

いくら「フェアな関係」を謳ったとしても、授受の意識が出てくるのは人間ならば自然なことだろう。

では、自然なことだから仕方ない…と終息してかまわないものだろうか?

確かにそれも一つの在り方である。
ただ、お互いの思いを表明し合うことは支援を底上げしていく上で不可欠なのではないか。当たり障りのない関係で支援を続けていくことは可能だ。しかし、いわゆる「共生社会」をお互いが心地よく生きていくことと捉えるならば、ときには衝突を覚悟で意見を戦わせることも必要だろう。それは単なる喧嘩ではなく「生産的なコミュニケーション」なのではないか
そこから新たな可能性が生まれる。
例えば、「してもらっている」と葛藤する聴覚障害学生が「自分にできること」を考えるきっかけとなることもあるかもしれない。
その繰り返しで私たちは少しずつ少しずつ進んでいける。

きっと、気持ちの表明をためらうのも「どう思うだろう、不快だろうか」とか「これを言って今後の関係がなあ…」とか、相手がどう感じるかを考えているからだろう。
私たちのコミュニケーションの始まりは、目の前にいる相手と同じものを見て共有することから始まり、相手の心象を想像しあい、それを手掛かりにして進んでいく。
そう考えると、「これを言ったらどう思う(思われる)だろう」と想像している時点でコミュニケーションの始まりにお互いが立っていると言えるのではないだろうか。

そのスタートラインにお互いが立っていること自体に価値がある。
その思いがある時点で、相手も自分も大切にできる人なのである。
あとは、その認識を前提としてもっていれば「喧嘩」に終わることはないと私は考えている。

自分たちはお互いのことを思い合っていて、コミュニケーションしたいと思っている。この前提が自分の中にあることに気づけたのであれば、ワークショップの価値はあったと言えるのだと思う。
「愛は力です!」とまとめてくれた学生がいた。
誰かに思いを馳せる、愛することこそ、推進力なのだろう。

私自身も、改めてコミュニケーションとは何なのか、これから言語聴覚士として「誰か」と向き合っていく上で大切にしたいことを再確認できた。



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