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家とはまことに怖い場所。「屋根裏に誰かいるんですよ。」読書感想文

「屋根裏に誰かいるんですよ」

目を離したすきに物の位置が変わっていたり、摺り変わっていたり。心安らげるはずの自宅に何者かが潜んでいるとしたら、大抵の人は恐ろしいはずである。

しかし、実際にそう訴える人たちは、困っているそぶりは見せても怯えている感じではない。

屋根裏にいる「誰か」は、稀ならずその妄想を訴える患者と奇妙な交流関係を結ぶ。憎みつつも、どこか狎れ合っているような不思議な関係性が成立する。

家のなかに誰かがいる。この“妄想”は、孤独な老人が訴えてくるケースが多いという。誰かとの交流を求める願望が、脳の衰えや環境のバイアスから侵入者ならぬ“幻の同居人”を生み出すのだ。

謎の侵入者、すり替えられた家族、宇宙との交信ーー。『屋根裏に誰かいるんですよ。 都市伝説の精神病理』は、精神科医の春日武彦氏がステレオタイプで都市伝説的とも言える妄想について切り込んだノンフィクション。

最初に江戸川乱歩の「屋根裏の散歩者」が取り上げられ、実際の孤独な老女の妄想ケースに入っていくのだが、フィクションから一歩日常に近づいていることに心が妙にざわめいて不安になる導入だ。

ことに本作は「家のなか」がテーマだ。外側からは何の変哲もない家に見えていても、内部がどうなっているかは計り知れない。

家というものはまことに気味が悪いものである。ごく普通のただずまいと映っても、中には妄想が渦巻いていたり、病んだ人がうずくまっていたり、死体が腐乱していたり、いろいろな秘密が押し込まれている。(中略)家は人間を住まわせる容器であると同時に、狂気を培養する孵卵器でもある。

すでに現代では廃止されているが、日本にはかつて「私宅監置」という制度があった。家族内の精神病者を自宅につくった部屋に閉じ込めておいてもいい、と認められていたのだ。

いわゆる座敷牢のことだが、本作に掲載されたモノクロ写真には絶句する。

座敷牢の理想とされるもので、正直大きな木箱にしか見えない。動物園の檻のほうがよっぽど快適そうである。実際には光もささない、立ち上がる高さもないような狭い空間が幽閉場所に多かったという。

しかも家のなかに座敷牢なんてものがあれば、家族は嫌でも異質な存在を強く意識して過ごさねばならない。座敷牢は世間はおろか、家族からも隠された場所につくられることが多かった。

私宅監置という言葉を取り上げたのでもうひとつ。1999年に刊行された本作には、「精神分裂病」という言葉が散見される。妄想は老人の脳の衰えが見せるだけでなく、脳の器質的障害でもおこりうる。その代表的な疾病が精神分裂病で、現代の「統合失調症」である。

精神が、分裂する、病。本文で出てくるたびに、少し止まってしまう。誤解や差別を生むという理由で名称が変更されたというのも頷ける。しかし、本書を読むにつれ、正常ではない脳がみせる妄想に精神がバラバラになっていくイメージも払拭しがたい。

統合失調症の妄想ケースで興味深かったものを最後に紹介する。

ある一組の夫婦で、発症者は妻。彼女は宇宙との交信をはじめ、元来妻に従う傾向にあった夫まで妄想に巻き込まれてしまう。後にふたりは、“宇宙語”で会話するようにまでなる。

数年後にトラブルを起こし、妻が入院すると夫は正気を取り戻すのだが、興味深いのは妄想共有時「最初に宇宙語を話し出したのは夫のほう」ということだ。妻の宇宙との交信という妄想にふれ、夫はそれを上回る(あるいは補強する)病的な発想を持った。

夫の暴走は、発狂というよりはむしろある種の過剰適応に近いのかもしれない。おそらく“宇宙語”の発明は、妻へ贈る彼なりのエールと考えることも可能に違いないのである。

閉鎖空間では、世間の常識や理性は無意味であり、狂気も正常も区別がつかなくなっていく。これは妄想に限らず、たとえば親が子に注ぐ愛や伝える信仰がときに歪んでしまうことにも関係がありそうだ。

狂気の孵卵器。家というのは、まことに怖い場所である。


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