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セカオワのドームツアー「DuGaraDiDu」に3回も参戦した話

私とSEKAI NO OWARIの出会い


さっさとライブの話に入ってくれと思うだろうが、私が語りたいので語らせていただく。

私とSEKAI NO OWARIとの出会いは中学1年生の頃。

私の中学校は、異なる2つの小学校から生徒たちが入学するため、中学校に入学すると必然的に新しい出会いが増えた。別の小学校から上がってきた生徒たちの中で、初めて会話を交わした男の子に「スターライトパレード」をおすすめしてもらったことがきっかけで私はSEKAI NO OWARIの音楽をよく聴くようになった。

初めてスターライトパレードのMVを見て、感じた印象は鮮明に覚えている。「ディズニーランドのエレクトリカルパレードを見ているみたい」だと。それまでの私の中のファンタジーは、ディズニーランドの世界観でしか体験したことがなく、何とか言語化して表現しようとしたところ、そのような感想に落ち着いたのだろう。

中学に上がって、人間関係にさらに悩まされるようになり、同じ思春期世代の狭いコミュニティに苛まれていた私にとって、幻想的でどこか魅惑的なセカオワの世界観は、非常に魅力的に思えた。

そこから私はのめり込むように、セカオワについてあらゆるインターネットを駆使して調べることになるのだが、キラキラだけを纏っているように見えていたセカオワは、過去にボーカルの深瀬が病気に悩まされていたことや、あらゆる方面から批判されながらも音楽を続けてきたことがわかった。

「世界の終わり」というバンド名は、深瀬の病のせいで絶望し、自分の世界が終わったと思ったことで、終わりから始めてみようという意味が込められていることも知った。

しかし、そのような情報だけで幻滅するはずがなく、むしろそのような出来事がさらに彼らの作る音楽の深みを増し、私はさらにSEKAI NO OWARIが好きになった。

彼らの作る音楽は、いい意味で今まで私が出会った来た音楽とは逸脱していると思う。この世を取り巻く正義と悪についてファンタジックに言及してみたり、「死」について曲にしてみたり、時にはスーパーに並ぶ商品を「命」と表現してみたり。さらには、動物保護についての曲もあるくらいだ。

また、彼らの作るラブソングも並大抵のものではない。
ロボットと恋をしてみたり、ドラゴンと戦ってみたり、最終的に恋人が星になってしまうような悲しい結末を迎えたり。

よくある友情や愛情だけを曲にするのではなく、みんなが目をそらしたくなるような現実や、彼らが感じた違和感を訴え続けている。

今回のライブは、そんな彼らがデビューする前から10年以上作り続けてきた音楽の集大成と言えるライブだったと感じている。

ドームツアー”DuGaraDiDu”について

初めて訪れた東京ドーム

前置きがかなり長くなってしまったが、本題は今回のライブだ。

ライブ、「DuGaraDiDu」の関東圏の会場は東京ドームである。
彼らも度々口にしていたが、東京ドームでライブを開催するという話が出たのは、2014年であり、ついに公に発表された2020年のライブもコロナで中止になってしまった。何かと東京ドームとタイミングというものが合わず、ようやく開催できたのが今回のライブだったのだ。

私は今回のライブこそ、デビューから10年以上経ったセカオワのライブと言って相応しいのではないかと感じている。

森を連想させるような深い緑色を纏ったステージ

「DuGaraDiDu」は、”100年後の2122年から見た現代”をコンセプトとした遊園地。ライブ中もピンク地に青色、縞々模様の奇抜な虎”ガルル”と”グルル”が問題を提起し、展開していく。

ガルルとグルルが挙げていく問題の数々は、2022年の我々にとっては、はっとさせられることばかりであった。対立する正義と悪について、動物保護の観点から、環境問題、ジェンダー問題、労働。

2122年に生きる人たちから告げられる問題の数々は、間違いなく痛ましい現在の世界の惨状であった。彼らは100年後の世界を生きる者たち。現代の問題に関して物珍しさを感じながら、直接的な表現を多用し語り進めることが皮肉に感じ取れることもある。

これらの問題がライブで語られるとは、どのようなライブなのか。
はたまた、こんな話の流れで披露する曲など持ち合わせているのか。
セカオワを深く知らない人たちにとって、どのようなライブだか、到底想像できるはずもない。それほど莫大な規模の物語になっているが、「天使と悪魔」や「深い森」を聴くと、コンセプトをより理解することに繋がるだろう。

今まで作ってきたSEKAI NO OWARIの音楽は、今回のツアーでさらにSEKAI NO OWARIのアイデンティティを強めることになった。

音楽を通して何かを伝えることは、背中を押してくれるような応援の気持ちであったり、恋の楽しさ、切なさだったり、そもそも音楽を発信しているアーティストの楽しい気持ちだったり、色々なものがあると思う。

そんな中で彼らが作り続けて来た音楽は、猫をかぶった人間の姿ではなく、ありのままの人間の姿であったり、生きている中でずっと彼らの心の中にあった蟠りであったり、みんなが目を逸らし続けて来た現状である。

彼らがデビューして3、4年ほど経った頃、大きな会場でメッセージ性の強い歌詞を歌って批判されたというニュースを拝見したことがある。多様性を認められない人間たちに攻撃を受け、なにより悩まされてきたのは、彼らなのではないかと私自身も想い続けて来た。

しかし、そんな彼らの違和感を発信し続けたことによって、同じように深層的に眠っていた聴衆の共感の心を呼び起こし、SEKAI NO OWARIを知る人が増えた。さらにその数が膨大になって、彼らが今回開催した東京ドームのツアーでは、二日間で合わせて約11万人の人間が、意識を変えるきっかけになった。

約1万2000個の電球が次々にステージを彩る

私は一度、SEKAI NO OWARIから気持ちが離れてしまったことがある。
彼らの海外の仕事が増えて、日本にいる時間が短くなったり、英語詞の曲を作り始めたりした辺りだ。

新しいシングルが発売されるたびに、「私が好きになった当初のセカオワは変わってしまったのではないか」「もう元のセカオワには戻ってくれないのだろうか」とあたかも彼らの本質が変わってしまったかのような言い分で身勝手に距離を置いてしまった。

しかし、今回のライブに行って、改めて彼らの音楽を、モニターに映し出される歌詞までもじっくりと目で追いながら味わい、私の考え方が間違っていたのだと実感した。

私が好きになった当初のセカオワも、今のセカオワも一貫してメッセージ性の強い歌詞を書き続けていて、根底としての考えは1ミリたりとも変わっていない。彼らの新曲を考察していく度に、新たな問題やメッセージを読み取ることができるのだ。

「消えてほしくないと思っている人もいれば、消えてほしいと思っている人もいるかもしれない」苦しい戦いを乗り切ったスターが最後のMCでそんなことを言っていた。

私は、このライブに訪れて初めて彼らが最も伝えたいこと、本来の歌詞の意味を理解することができたのではないかと思う。彼らが今回最も伝えたかったことは”多様性”なのだろう。

正しい、間違いは強要すべきでない。戦いを強要する人の中に本来の悪がいて、自分自身の考えを変化させることが出来なければ、他人のことなど理解できない。

これも彼らがずっと訴え続けて来たメッセージだ。
そう考えると、これまでの大規模なライブの数々も、人間の核心を突くようなものばかりだったと今になって実感する。

かつて深瀬が言った「ファンタジーなんて大嫌いだ」という言葉が今になってようやく理解できた気がする。彼らは、幻想的な世界観の中でも、本質を捉え、世界を変えようと試みる、とんでもない集団だった。

今回のライブは、彼らが作り続けて来た音楽と世界観でしか作り出せないもので、長年彼らの音楽に魅了され続けて来たからこそ、最後のパズルのピースがはまって、全てが完成したような、とても心地の良いライブだった。何度も言うが、これぞ10年間の集大成と言えるのではないか。脳が蕩けるくらいに幸せな空間だった。

ここまで完成されたセカオワワールドが、今後さらなる進化を遂げるのか、さらに動向を追っていきたくなった。

今までもたくさんセカオワに助けられてきたが、これからもずっと私の生涯が尽きるまで応援していきたい。

物語の進行役 ガルル


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