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カネコアヤノと私

カネコアヤノを聞き始めたきっかけは紛れもなく大学のゼミの友人がきっかけで、彼女はよく音楽の話になると”カネコアヤノ”というワードを出していたように思う。祝祭のアルバム(高校生の頃)からカネコアヤノのことは認知していたが、こんなにのめり込む程曲を聴いていたかと聞かれたらそうではない。

カネコアヤノを知るきっかけがあったのに、何故私の日常に溶け込むことが無かったかというと、当時の私は彼女の歌詞に共感する程の感性を未だ持ち合わせていなく、世界観も当時の憧れとはかけ離れていたのかもしれない。

私は、音楽は成長と共にあると感じている。
成長するにつれて私自身も聴く曲がかなり変化しているし、共感する歌詞や憧れのアーティストも変わった。それは、私の感性や気持ちに変化があったからだと思う。

カネコアヤノは、どこにでもある日常の一欠けらを美しく彩るような歌詞を書く。彼女の比喩が秀逸過ぎて、共感できるような共感できないようなもどかしさがある。だが、そんな共感できるようで出来ない、はっきりとしない曖昧な気持ちが愛おしく感じるほど、きっと私の心の中の気持ちも曖昧なのだと思う。

中学生、高校生の時に抱いていた悩みとは、また別の悩みを抱え、悩み方も当時とは異なる。怒と哀があまり出せなくなった。カネコアヤノの音楽は、そんな心に抱えた”怒”と”哀”という感情のひとつひとつに寄り添ってくれるものばかりである。

また、私は彼女のMVやアーティスト写真などの世界観にも強い憧れを抱いている。今にも消えてしまいそうな色彩、彼女自身もそんな儚さを纏っているように思う。そんな彼女がライブでは声量のある力強い歌声で聴衆を圧倒するのだ。ギャップにも程がある。

大学生のうちにひとりで彼女の音楽を堪能しに行きたい。彼女が持つ固有の感性に触れてみたい。触れたらより彼女(の音楽)と一体化できる気がする。

愛故に。

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