見出し画像

オチのない話が一番怖いという話

夫がまだ20歳くらいの頃、居酒屋でアルバイトをしていたそうだ。
大阪の下町・阿倍野にあるチェーンの居酒屋は、安さが売りの綺麗とは言いがたい店内で、薄い酒としょっぱい料理を提供し、深夜労働ができる人間を雇ってはコキ使う。面接の時に“まかない付き”としか聞かなかったまかないは、食べるたびに650円払わされた。
そんな店だった。

その日の休憩時間は、何かと先輩風を吹かせてマウントを取ろうとする1つ年上の大学生(男子)と、30代前半の女性が一緒だった。
彼女が外でタバコを吸っているのを、見たことがあった。明るい髪色やその目つきからは元ヤンっぽさが漂っており、とっつきにくさを助長していたせいか、彼女に話しかける人は少なかった。
もちろん夫も話したことはなく、これから1時間この3人で休憩時間を過ごすことを考えると、ただでさえないやる気がさらに失せた。
今日の給料から650円天引きされることを頭で計算し、苦々しく思いながら、夫は茶碗にご飯をこれでもかと乗せた。

豚肉と野菜を醤油で炒めたおかずを箸で捕まえるように取ってから、ご飯を口に放り込む。ほとんど噛むこともなく飲み込み、また箸をおかずにつける。腹を満たすことだけを考えて食べた。
隣に座った先輩が、いつものように自慢話を繰り広げようとしたときだった。

「昔、付き合ってた人がいてんけど」

突然、女性は誰に言うともなく切り出した。
自分に向けて話しかけられてるとは思わず、夫は豚肉を一枚ご飯の上に乗せると黙って口に入れた。

「最初は別々に住んでてんけど、途中からその人の住んでたアパートで一緒に住むようになって」

ようやく夫がちらっと目をやると、女性は何もないテーブルの上を見つめていた。夫のことも先輩男性のことも、見ていないようだった。

「しばらく同棲してて、向こうのご両親とも食事行ったりして仲良くしててんけど、何かのきっかけでその人のことが嫌になって、別れることになってん。でも彼が別れたがらなかったせいで、ちょっと揉めて。けっこう精神的に疲弊したし時間もかかったけど、なんとかかんとか別れて、私はその人のアパートから離れた場所に引っ越すことにしてん。未練持たれたら嫌やったから、新しい住所も言わずにサヨウナラって感じで」

肉をゆっくりと咀嚼する。なぜこんな話を始めたのだろう。訝しみながらも、話が気になってしょうがなかった。

「別れてからしばらく経って、バイト先で働いてた時に…私バイト先だけはずっと変えんとそのままやって。夕方頃に、用事があってパッと店先に出てん。そしたら何か視線を感じて。誰かが、ちょっと離れたところの電信柱に立っててこっち見てるねやんか。あ、彼や!って思って。彼が見ててん。私のこと。すぐに店に戻って、バイト終わってからも怖いから、しばらく店で匿わせてもらって。で、電信柱に誰もいないのを確認してから、バイト先から急いで帰ってん。次の日、斜向かいの店の仲の良いおばちゃんに電信柱に男の人が立ってたこと話したら『あんた、あの人知り合いなん? 朝からずーっと立っててんで』って言われて、私もう気味悪くてさ」

箸を手にかけたまま、夫は女性の話の続きを待った。先輩も、ジッと黙って話を聞いていた。

「その後は、もう彼が現れることなかってんけど、1年くらい経った頃やったかなぁ。共通の友達から、彼が事故で亡くなったって聞いて。でも私、あんまりきれいな別れ際じゃなかったし、お通夜もお葬式も行かんかってん。それから1週間後に、知らん番号から電話かかってきてな。誰かな、と思ったら彼のお母さんやって。一人暮らししてた彼のアパートを処分するから、あなたも一緒に片付けを手伝ってって言うねん。嫌やなって思ってんけど、何度もご飯食べさせてもらったお母さんの頼みやし、一緒に暮らしてた時期もあった部屋やし、まぁいいかと思って行ってんやんか」

夫はもう食べるのをやめた。いや、食べることを忘れていた。

「彼の部屋に行ったら、私がいた頃と何も変わってなくて。そのまんますぎて怖かったくらい。彼のお姉さんも来ててんけど『これはあの子がよく着てた服や』とか小さい頃の思い出とか言いながら、3人で片付けてたら、押し入れの奥から缶が2つ出てきてん。なんやろう?ってお母さん私に渡すから、パッと開けたら、金色の細長い糸みたいなのが絡まって塊でいくつも入ってて。一瞬で私の髪や!ってわかった。会わなくなってからも、絨毯とか洗面台とかに落ちてたん拾ったんやと思うわ。お母さんもお姉さんもめっちゃ気持ち悪がってたけど、私の髪やとは言わんかった。で、もうひとつ缶あるから、そっちも開けてみようってまた開けたら、今度は使用済みのタンポンがギッシリ入っててん。ギャッ!!ってお母さん叫んだ後に『早く帰り!もう片付けいいから、あの子のことは忘れて!早くここを出なさい!』って大声で、私追い立てられるようにアパート走って出てん」

食べ残っていた豚肉と野菜は冷えて乱雑に皿を汚し、皿のくぼみには大量に浮いた脂の下で、分離した醤油が溜まっていた。
女性はしばらく何も言わなかった。なんの音も聞こえず、休憩室はシーンと静まり返っていた。

夫が何か言いかけるより少しだけ早く、女性が沈黙を破った。

「ま、全部嘘やけどな」

「え?」

「うそ」

「え? 嘘?」

「うん、嘘ウソ。びっくりしたやろ。もう休憩終わるし、私タバコ吸ってくるわ」

そういうと女性は休憩室を後にした。
先輩はなぜか取り繕うように「あの人ああいうとこあんねん」と笑うと、食器を片づけ始めた。

茶碗にへばり付くように固くなったご飯と冷えた野菜炒めを目の前に、夫はその場から動けなかった。

その日以来、居酒屋で女性とバイトが一緒になることはなく、結局ことの真相は聞けなかったそうだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?