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「女性の人権」を守るためには、声高に叫ぶでも戦うでもなく「性教育」を受けるべきと思った話

ここ最近モヤモヤしてたことに、自分のなかで終止符が打たれたのでメモがてら書いておこうと思う。


「女性って(母親って)男性と比べたら負担大きない?」

そう思い始めたのは、いつごろか。
我が家は3人の子ども(2歳・4歳・9歳)がおり、4歳と9歳は学校へ行ってないためずっと家にいる。
私たち夫婦は在宅で仕事してることもあり、基本的には家事育児を半々で振り分けていて、分担という大袈裟なものでなく、できる方ができることを粛々と…でこれまでやってきた。
夫との関係は風通し良く、恋人としても友達としても、家族としても素晴らしいパートナーだと思っている。

そんな私ですら「負担大きない?」と思うのだから、ワンオペのお宅とか女性が家事育児の9割を担ってるよと聞くと、大変やな〜と思わざるを得ない。
「その代わり、外で仕事してお金稼いでる」
みたいな意見もあるのだろうけど、正直仕事は男女問わずできることだし、なんなら家事育児も男女問わずできるのであって、そういうことじゃないんよ感がすごかった。

そんな尻の座りの悪さを根底に抱えつつ社会を生きてると、不寛容やな〜と感じることがたびたび起こる。
でも私が「不寛容やな〜」って思ってることを、田嶋陽子が、蓮舫が、辻元清美が、共産党の女性議員が、フェミニストが代弁してくれてるのかと言うと、それはそれで全く違うのが不思議だった。

正義感持って声高に言うてはるけど、おもてないねん

ズレてる、という思いが常にあった。

話は違うが、村上春樹のエルサレム賞を受賞した時の「卵と壁」のスピーチをいつも心に留めている。もし読んだことがない方がいらっしゃったら、ぜひ読んでほしい。

我々はみんな多かれ少なかれ、それぞれにひとつの卵なのだと。かけがえのないひとつの魂と、それをくるむ脆い殻を持った卵なのだと。私もそうだし、あなた方もそうです。そして我々はみんな多かれ少なかれ、それぞれにとっての硬い大きな壁に直面しているのです。その壁は名前を持っています。それは「システム」と呼ばれています。そのシステムは本来は我々を護るべきはずのものです。しかしあるときにはそれが独り立ちして我々を殺し、我々に人を殺させるのです。冷たく、効率よく、そしてシステマティックに。

村上春樹のエルサレム賞受賞スピーチ「壁と卵 – Of Walls and Eggs」

そう。
すべての問題はシステムから起こっている。
この世の中から戦争がなくならないのも、フードロスが減らないのも、貧乏人がずっと貧乏人なのも、構築されたシステムがそうさせているのだ。同様に、社会において女性が不利なのは、長く続いた家父長制や多くの組織が男性ばかりで運営されてきたこれまでのシステムが悪いのだ。だからシステムそのものを変えなければと、強く思っていた。


そんな思いと並行するように数ヶ月前、子どもたちのためにと性教育の講座を受けた。
一番の目的は息子に思春期が近づいてきていることで、第二次性徴期が来ても照れずに説明できるように、と受けたのだった。
学んだことを息子にシェアするも、彼はすでに8歳(当時)。照れがあるのか、サラッと耳を傾けてくれた程度で、膝を突き合わせて話すことはなかった。
なんとなく得た知識を持て余した私は、この子たち(2・3歳の娘)に言ってもわからないだろうけど、と思いつつ「お股触るときは、ひとりの時にしてね」「清潔なおててで触ってね」と教えられたことを伝えた。
しかしお風呂で、トイレで、私が彼女たちのお股を洗ったり拭いたりする機会は毎日のようにあり、プライベートゾーンに手が触れる時には教えられた通り「母ちゃんが触るよ〜」と前置きをしてからするようにした。

教えたことなんて特にない。
たった一言二言、口にしていただけだ。

本音を言えば、性教育の講座のほとんどがすでに知っている知識だったし、子どもたちに対して「大事なところよ〜」「触るときは相手に聞いてね〜」と言うのが加わっただけ、に過ぎなかった。

それが数ヶ月経ち、芽生えて花になろうとは思わなかった。
誰に芽が生えたかというと自分である。

ある日、夫との性行為中に「して欲しいこと」と「して欲しくないこと」がある自分に気づいたのだ。
先に言ったように私と夫とのパートナーシップはとても良い。率直になんでも思ったことを口にしてきたし、仲もとても良い。性に対してもそうだ。
それなのに未だ言ってないことがあったことに驚いた。

でも気づいてしまったからには言うしかない。

それは勇気の要ることだった。
相手がどう思うか。相手にどう思われるか。
「はしたない」とか「ふしだらな」とか「受け入れてこそ」みたいな声が私の上を飛び交っていたけれど、夫への信頼を杖に、勇気を振り絞って言葉にしてみた。
その瞬間、分裂していた身体がひとつになるような感覚に陥った。

それは紛れもなく「自分」だった。

私は、毎日毎日娘たちに「母ちゃん触るね」「ここはあなたのとても大事なところよ」と言うことで、私自身にも同じことを言い続けてきたのだ。
何も性行為に限ったことではない。
人間の尊厳として、許可なく誰かに触れられたくない、私は大事な存在なのだ、と繰り返し言い続けた結果「じぶん」が立ち上がったのである。

それは戦わずとも(誰かを傷つけずとも)、声高に叫ばずとも(自分を消費したり、身を粉にせずとも)ただ泰然とそこにいた。
この感覚を「人権」と呼ぶのか、と肌で感じた。

全然知らなかった。
お茶汲みをしないことが、家事育児に従事し続けないことが、「女性が輝く社会づくりを」と謳うことが女性の人権を守ることではなかった。
女性が自分自身を「私は大切な存在なのだ」と自覚することから、人権が芽生えるのだ。
特に誰に教えられるわけでもない、タブーになりがちな性のことは、両親が持っていた価値観、巷の動画や漫画で見た知識、自分の経験を組み合わせて勝手に正解を作ってしまう。

  • 少女漫画の主人公はいついかなる時も、男性を受け入れてた。

  • 性に奔放な女友達はクールに見えた。

  • 女の子なのに、性欲を露わにするなんて。

女の子なのに、男の子だから、〇〇すべき、〇〇してはいけない、そんな無自覚な先入観が「してほしい」「してほしくない」を閉じ込めて、自分の人権すら損なっていたことに、軽く吹っ飛ぶくらいの衝撃を受けたのだった。

自分の家庭に性教育という種を蒔いた数ヶ月後、こんな形で芽が出て花が咲くとは思わなかった。
そしてこれが人権を守る唯一の手がかりなのでは、と本気で思っている。
戦わず、血を流さず、あらゆる性にとって居心地の良い社会を作るためには、性教育を受け「あなたの命は、私の命は、脅かされることのない大切なもの」と知ることからではないかと。

そして自分に湧き上がってきた気持ちは氷山の一角で、「して欲しいこと」「して欲しくないこと」はもっと膨大にあるのだと思う。
もちろん性行為に限らず。
勇気を出して言葉にした結果、驚きも動揺もせず、ただただ受け入れてくれた夫にも感謝したい。



余談だけど、先日夫が冗談で私の胸を触るというモーションをしたとき、娘が「父ちゃん! 触ってもいいって聞かないとだめでしょ!」と本気で怒っているのを見て、育まれてるな〜とホクホクしたわ。


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