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細川忠興漬けイカ

北九州市の小倉城。福岡県内では唯一、天守閣がある城。とは言っても昭和三十四年(1959)に鉄筋コンクリート造りで再建された建造物。
最初に此処に築城したのは毛利氏でしたが、関ヶ原後に豊前の領主となった細川忠興が大規模に修築したのが近世城郭としての始まり。
唐造りと呼ばれる天守閣ですが、私が子供の頃は南蛮造りと言われていた氣がします。

ところで漁師が釣り上げた烏賊を船上で捌いて醤油に漬けて持ち帰った漁師料理が沖漬け。ということで沖漬けを作りながら何故か細川忠興を妄想した記録。


材料

スルメイカ 1杯
醤油    100ml
味醂    100ml
水     50ml
酒     50ml

永禄六年(1563)に誕生した熊千代が後の忠興。父は足利義輝に仕えた細川藤孝ですが、義輝が殺されると父は都から逃亡。熊千代は置き去り。
三歳の熊千代は乳母と共に暮らし、身元を隠すために庶民の子として育てられる。
義輝の弟である義昭を擁した藤孝が信長に仕えるようになると、父が迎えに来たものの、この幼少期の体験が彼の人格に大きな影響を与えたと思われる。

皮を剥いた烏賊を輪切り。

成長して忠興となったが、剛毅な戦国武将というだけではなく父同様に文化人としての名も高い。
千利休の弟子であり、忠興が始めた茶道の流派は彼の雅号から三斎流と呼ばれる。
アイディアマンでもあったようで、彼が考案した甲冑は越中好みと呼ばれた。これは忠興が越中守に任官していたから。
刀の拵えも自身が学んだ居合術に合わせて抜き打ちに優れた形にし、肥後拵えと呼ばれた。これは後年、細川家が肥後の領主となったから。
男性の下着である越中褌も越中守忠興の考案。
忠興は自らの佩刀を「歌仙」と名付けていた。雅な名前のようですが、由来は怖い。
忠興はこの刀で多くの家臣を手討ち。その数が36人。三十六歌仙にかけて、その刀を「歌仙」と名付けたという訳。
この逸話から想像出来るように、かなり荒っぽい人。
ついた綽名が「天下一の短氣者」
短氣が向けられる先は家臣ばかりではなく、身内にも容赦ない。

上の記事でも述べていますが、妻であるガラシャの侍女やその美貌に見惚れた庭師にも残酷な所業。
関ヶ原の前、忠興は長男の忠隆と共に会津征伐に従軍。その間に石田三成率いる西軍は東軍に属した大名の妻子を人質に取るべく大坂の大名屋敷を囲む。細川家の屋敷にも西軍の手が伸びる。
ガラシャは亡くなりましたが長男の妻、千世は実家の前田家の手引きもあり脱出。助かってよかったと喜びそうなものですが、忠興は激怒。
ガラシャが死んだのに千世が逃げたのはけしからんとして、忠隆に千世と離縁せよと命じる。
忠隆がそれを断ると、忠隆を勘当。二人そろって細川家から追い出した。
追い出された夫婦は祖父、藤孝の所へ。


混ぜ合わせた調味液を沸騰させ、粗熱が取れたら烏賊を投入。一晩冷蔵庫へ。

長男が廃嫡されたので、次男の興秋に跡を継がせるかと思いきや、忠興が後継者に指名したのは三男の忠利。
忠利は江戸で徳川家の人質となっていたので家康や秀忠の覚えも目出度い。徳川家寄りの態度を忠興は示したということ。
代わりに興秋が江戸へ人質として向かうことになりましたが、その途中、京都で興秋は剃髪。祖父である幽斎こと藤孝の元に身を寄せる。
この頃、忠興は父の藤孝とも不仲。関ヶ原の際、藤孝が自分の城を西軍に明け渡したことが原因。
忠興は自分の身内を全部、敵に回している?

忠興の鼻には疵がありました。それは妹に付けられたもの。
妹が嫁いでいた一色義定を宴会に呼び寄せて謀殺。
実家に戻った妹が恨みの刃を向けたという訳。


細川忠興漬けイカ

味醂を加えた醤油の甘辛い味が一晩でしっかりと烏賊に染み込んでいる。
ご飯のおかずだけではなく、日本酒にも合うかもしれない。
烏賊に含まれるタウリンは肝臓の働きを助ける。抗酸化作用があるビタミンE、タンパク質等、栄養も豊富。

大坂の陣が起こると興秋は大坂城へ入り、父や弟が属する東軍と対立。
大坂落城後、興秋は無事に脱出。
これまでの細川家の忠勤に免じてということか、徳川家は興秋にはお構いなしと裁定しましたが、忠興は許さずに切腹を命じた。

身内にも容赦ない仕打ちの数々は短氣だったというだけではなく細川家を守るためという面もあった。
忠隆の妻、千世の実家である前田家は豊臣家と繋がりが深い。徳川家寄りであることを示すには離縁した方がいいという判断。
興秋の行為は細川家を危うくするものであり、例え徳川家がお咎めなしと言っても、それを鵜呑みにしてしまえばお家が危うい。
自身の妻、ガラシャを一時期、幽閉したのも妻の実家が謀反を起こした明智家だったから。放置すれば家の危機を招く。
言い換えれば、身内のこうした状況や行動が忠興の短氣に拍車をかけていたのかもしれない。
「俺が家を守るためにどれだけ苦労してると思っているんだ。それなのに身内の者どもは自分のことだけ考えやがって」と叫びたかったかも?

晩年には丸くなったと言われている忠興ですが、少しは自らの行いを振り返って後悔することもあったかもしれません。

戦国武将とはかっこいいだけではなく、怖い面がある人々。その典型とも言える、感情の起伏が激しい人物だった細川忠興を妄想しながら、細川忠興漬けイカをご馳走様でした。

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