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のらぼうの城

のらぼう菜という野菜。最近、知った野菜ですがアブラナ科で主に関東で栽培。ベータカロチンやビタミンB群が豊富。カリウムやカルシウムも含まれる。
この野菜を料理しながら、昔、読んだ小説で描写されていた人物や出来事を妄想した記録。


材料

のらぼう菜 1袋
木綿豆腐  半丁
出汁つゆ  小匙1
醤油    大匙3
味醂    味醂1
鰹節    1パック

「のぼうの城」は和田竜の小説。野村萬斎主演で映画化されたので、そちらを視聴した方も多いかもしれません。私は小説は読んだものの、映画は未見。
この小説の主人公は、でくの坊から「のぼう様」と呼ばれる成田長親。
舞台となっているのは、現在の行政区で言うと埼玉県行田市に当たる武蔵国の忍城。
時代は戦国末期、天正十八年(1590)の六月。


豆腐をキッチンペーパーで包んで重しを乗せて水切り。

この年、豊臣秀吉は関東征伐の軍を起こす。20万という軍勢を率いて、小田原の北条氏を屈服させるべく行動。
小田原城を包囲すると同時に、北条氏が関東各地に築いていた支城の幾つかを武力攻撃して各個撃破。そうした過程で起こったのが忍城の戦い。
忍城に寄せて来たのは石田三成率いる2万3千の軍勢。
当時、城主の成田氏長は小田原城に詰めていて不在。恐らくは小田原の本城を守るために主だった兵力も連れていったかと思われます。
城に残っていた兵力は500.
降伏勧告に乗り込んできた長束正家、圧倒的な数を頼んでか居丈高。
「降伏するか、戦うか選べ」


のらぼう菜を茹でる。

城代の成田泰季の返答は
「戦場で相まみえん」
武士の意地を示すことにしたのでした。
500人しか城兵がいないので降伏するに決まっている。楽勝と長束も三成も高をくくっていた?
泰季は城下の民をすべて城に入れて籠城。これにて城内の人数は3000人に膨れ上がる。ところが、ここで思わぬことに泰季が急死。
以後、泰季の子、のぼう様こと長親が籠城戦の指揮を執る。


茹で上がったら水気を絞る。

忍城の周囲は沼地が多く、利根川と荒川に挟まれた扇状台地。水に浮かんでいるように見えることから浮き城とも呼ばれていました。
関東七名城の一つにも数えられる堅固な城で、上杉謙信に攻められた時にも持ちこたえた実績。
やはり三成も攻めあぐねる。そこに秀吉から指示が飛んでくる。
「水攻めにせよ」
城の周囲に堤防を築いて、利根川の水を引き入れて城を浮き城ではなく沈み城にしてしまえということ。梅雨時なので雨も降るので好都合。
秀吉が備中高松城を攻めた時と同じく、水で攻めよということ。その指令を受けて、三成は全長28キロにも及ぶ長大な堤を7日間という突貫工事で作り上げる。
城から少し離れた所には古墳群があり、その一つ、丸墓山古墳に三成は本陣を置いていました。古墳の前に今でも痕跡を見ることが出来ます。↓

ところが、思わぬ誤算。
忍城は周囲よりも若干、高い場所に築かれていたため、どれだけ水を堤防内に貯めても水没せず。それどころか三成の陣の方に水が偏って来る。
ここで長親の奇策。
夜陰に紛れて水練の達者が堤防へと泳いでいき、穴を開ける。蟻の一穴というやつです。堤防とかダムは少しでも亀裂が入れば、其処に水圧が一気に掛かり、崩壊。この時もそれが起こりました。
鉄砲水が石田方の陣に押し寄せて270人程の死者。


油で炒める。

水が抜けた城の周囲は泥沼のようになり、馬で攻め掛かるのは無理。
長親達も城に籠っているばかりではなく、長親配下の正木丹波守は鉄砲隊を率いて時折、城下へ出て三成方を攻撃して苦しめる。
このような繰り返しで、城は一向に落ちる気配もなし。
七月に入ると援軍が到着。城方にではなく石田方に。圧倒的な数で攻めているのに援軍が必要になるとは、三成は屈辱を覚えた?
更に屈辱なことに攻城の主導権は以後、浅野長政に。


豆腐を崩しながら入れる。

そうこうしている内に小田原城が降伏、開城。本城が落ちても尚、忍城は落ちず。
小田原に詰めていた城主、成田氏長による開城命令を受けて、ようやく長親も開城し、忍城の戦いは終わりを告げました。


調味料投入、味が馴染んだら鰹節投入。汁気を吸わせると共に出汁の味わいを付ける。

大軍を持って、水攻めまで行いながら忍城を陥落させられなかったことから、石田三成は戦が下手だという風評。しかし水攻めを指示したのは秀吉。一概に三成のせいとは言えない。しかし秀吉に忠実だった三成は主を悪く言うことはないでしょうから、敢えて戦下手の悪評を被った?


のらぼうの城

城は白にも通じるということで白い豆腐で炒め合わせました。
のらぼうの白でもあるということ。
醤油と出汁が沁みたのらぼう菜、葉は柔らかく、茎は程よい歯応え。豆腐との相性もいい。汁気を摺った鰹節がまとわりつくのもいい感じ。

その後の成田氏ですが、城主の成田氏長は領地没収となり、蒲生氏郷に預けられたものの、成田氏は関東では名門だったことを考慮され、後に下野国烏山藩主に。
籠城戦を指揮した長親も烏山についていきましたが、氏長と仲たがいして出奔。後に息子が尾張の松平忠吉に仕官した縁で、そちらで人生を終えたようです。
小説の中で「のぼう様」と呼ばれた成田長親。忍城の籠城戦以外にはこれといった活躍が見られず、この時のために生まれた?とも思えてきます。そんな妄想をしながら、のらぼう菜の城をご馳走様でした。

忍城の動画をどうぞ。↓


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