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煮っ転がしょう類憐れみの令

江戸時代に出された『生類憐みの令』
少し昔までは天下の悪法として、非難する声が大きく、これを発令した将軍は頭がどうかしていたのではないかと思う人もいたような。しかし近年では、必ずしも悪法とは言えず、それなりの意図があったという研究も。
この法令と、それを発した五代将軍、徳川綱吉について妄想しながら料理した記録。


材料

里芋   400グラム
人参   1/4 (後付けなので写真なし)
出汁つゆ 大匙2
蜂蜜   小匙1
醤油   大匙1
酒    大匙1
味醂   大匙1
塩    適量

徳川家光の四男として生まれた徳松、本来ならば将軍になることはない定め。長幼の序という長子相続が武家社会では確立していたから。
父の家光が弟の忠長と確執があったから、我が子達には同じ轍を踏ませないようにと長幼の序を重視する儒学を教育。
弟は兄の補佐に徹するべしと叩き込まれてきました。徳川忠長については、以下をご覧下さい。↓

長男の家綱が四代将軍を継ぐと、その偏諱を受けて綱吉となった虎松は、父の教え通りに兄の補佐。自身は舘林城主となりましたが、城主だったとはいえ、一度しか館林に行っていません。それだけ江戸で兄の補佐に専念していたということか。
館林の動画。↓



里芋を圧力鍋で煮る。

ところが、兄である将軍家綱が早世。跡継ぎ問題発生。
この時、何故か大老の酒井忠清は京都から宮将軍を迎えるべしと主張。徳川家の血筋ではなく、天皇家の血筋を将軍に?どういう意図?
鎌倉幕府が源氏三代が滅んだ後、宮将軍を迎えたのに倣った?
これに異を唱えたのが水戸の徳川光圀。水戸黄門こと光圀については以下をご参照下さい。↓

「血筋がもっとも近い者が跡を継ぐのが当たり前」この口添えが決めて。
家光の次男、三男は既に亡くなっていたため、四男の綱吉が五代将軍襲名。


茹で上がったら皮を剥き、塩でもんでぬめり取り。

学問好きだった綱吉、儒学を奨励し、儒学を教える湯島聖堂を建立。
しかし、悩みの種が一つ。
子がなかなか出来ず。本人よりも気を揉んだのが母の桂昌院。
僧侶、隆光に相談すると、綱吉公は前世で殺生を行った報いで子が出来ないとの返答。生き物、特に綱吉は戌年生まれなので犬を大事にすべしと助言。これに従う形で発令されたのが『生類憐みの令』
対象になったのは犬は勿論、動物類、魚貝、昆虫。
特に犬を大事にすべしということから、野良犬を保護する施設が中野に作られました。
しかし、ここが大事なことですが、これらだけではなく、実は捨て子、病人、老人といった社会的弱者も対象に含まれていました。


圧力鍋に里芋、余っていた人参をイチョウ切りにして調味料と共に加圧、煮ていく。

当時はまだ戦国時代の遺風が残っていたようで、弱い者がひどいメに遭うことも珍しくありませんでした。先にリンクを貼った水戸黄門でも書いていますが、黄門様自身が若い頃には非人を辻斬りしています。
弱い者を労わる社会にすべしという理想があったのではないかという説が唱えられるようになったのは、こういう背景を考慮してのこと。
野良犬を保護したというのも、放置しておけば噛まれる人が出るかもしれないという配慮?今、思いついた説ですが。
力づくの武断政治から、学問や徳で世を治める文治政治への転換という目的が『生類憐みの令』にはあったのかもしれません。


加圧後、更に煮て水分を飛ばしていく。

具体的な事例としては、犬を殺したら死刑とか、将軍の行列でも犬、猫の通行を妨げてはならない。蚊が頬に止まっても殺さずに団扇であおいで逃がせとか。どこまで本当?
蚊を殺したために遠島になったという人もいた?
しかし物事には例外が付き物、漁師が漁をするのはお咎めなしだったとか、公家や朝廷からの使節への饗応には海老や魚を出してもよかったとか。
そうした勅使が江戸城に来た時に、刃傷沙汰を起こした浅野内匠頭は即日切腹。人間は生類ではないの?これが赤穂浪士の討ち入り所謂、忠臣蔵の発端。このため忠臣蔵では綱吉は悪役扱い。忠臣蔵については以下をどうぞ。↓

法令の運用に際して、行き過ぎたこともあったようですが、それに対して強烈な風刺というか当てつけを行ったのが水戸黄門こと徳川光圀。
犬の毛皮で作った敷物を綱吉に贈ったといいます。
このことで光圀が何等かの処罰を受けた形跡はなし。綱吉も自分を将軍に押し上げてくれた光圀に何も言えずということでしょうか。


煮っ転がしょう類憐みの令

甘辛な味がしっかりと沁みています。圧力鍋調理のため、里芋はほくほく、人参はとろけそうにやわらかい。ご飯が進む味。
食物繊維も豊富な里芋、塩もみしたが、まだまだぬめる。このぬめりはガラクタン。血圧下降と血中コレステロールを取り除く効果。

生き物、特に犬を大事にしたことから『犬公方』と陰口を叩かれた綱吉。どうやら隆光の予言は的中せず、結局、生まれた男子は早世。自分の子を六代将軍にすることは出来ませんでした。
臨終に際して『生類憐みの令』はそのまま続けるようにと遺言。しかし六代将軍は綱吉の死後、すぐに法令廃止。これにより24年間続いた『生類憐みの令』は終わりを告げました。
この後、これまで過剰に大事にされていた犬達がかえって虐められるようになったとか?
徳川綱吉、本心はどういう意図から『生類憐みの令』を命じたのか。
弱者にも優しい社会を目指したとすれば、変革者ということになる。跡継ぎが欲しいので怪しげな僧侶の予言に惑わされたとなれば、為政者として失格となる。そんなことを妄想しながら、煮っ転がしょう類憐みの令をご馳走様でした。

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