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韮チヂ宮本伊織

韓国風なお好み焼きであるチヂミ。
本当は小麦粉で作る物ですが、グルテンフリーなどかた家には小麦粉なる物質が存在していないので別の粉で作りながら、剣豪の養子となった人物について妄想した記録。


材料

米粉     100グラム
片栗粉    100グラム
韮      半把
ツナ     1缶
干し海老   好きなだけ
胡麻油    適量
唐辛子粉   適量
摺り胡麻   適量
自家製ポン酢 好きなだけ

自家製ポン酢については以下をご覧下さい。↓

日本人なら名前位は聞いたことがある剣豪、宮本武蔵。
生涯、妻帯せず子供もいなかったことから、三人の養子を迎えています。
武蔵の名を一躍有名にした吉川英治の小説「宮本武蔵」には城太郎という少年が登場しますが、こちらは完全な創作。
最初に養子となったのは三木之助。俗説では馬子の少年だったと言われますが、研究者によっては武蔵の父、新免無二斎の旧主、新免家に連なる人物とも伊勢の中川氏出身とも言われます。


韮を食べやすい長さに切る。

長じて後、本多忠刻に仕えましたが、主君の死に際して殉死。
二番目に迎えた養子が伊織。
吉川英治の小説やその元ネタとなった「二天記」では出羽の最上家牢人の子とされています。
回国修業中の武蔵が正法寺原を通りがかった時、泥鰌を取っていた少年に少し分けてくれないかと頼んだ所、行く所がないなら、家に泊めてやると言われ、ついていく。
夜中、刃物を研ぐ音に目を覚ました武蔵が隣室を覗くと、少年が鉈を研いでいる。


米粉と片栗粉を混ぜて、水を1カップ、少しづつ注いで混ぜる。

空恐ろしくなり、訳を訊ねると父親が亡くなり、死体を墓に持っていかねばならないが、子供の自分では一度には運べないので二つに切って持っていこうとしているとのこと。
そんなことをさせる訳にはいかないと、武蔵が手伝い、無事に墓に死体を持っていき埋葬。この少年、伊織の豪胆さと合理的な考えに感じ入り、養子とした。
という話になっていますが、どうもこれは創作。


韮、干し海老、ツナを混ぜる。

実際は武蔵の兄、田原久光の次男。つまり甥。
伊織が出身地である播磨(兵庫県)の泊神社を再建し、その時に掲げた棟札に自身や先祖の来歴を書いていることから、ほぼ確実。
江戸時代の人々は今よりも神仏への尊崇は厚い。神社に捧げた棟札にいい加減なことは書かない。
甥という近親者なので養子とするにも都合がいい。
利発な少年だった伊織を養子として、家名を継がせる。こうして名乗ったのが宮本伊織貞次。


自家製ポン酢に摺り胡麻、唐辛子粉、胡麻油を混ぜる。

来歴や出自がはっきりしているのに何故、牢人の子で泥鰌を掬っていたという話になったのかは、二天記の作者が伊織のことを調べるために子孫に会った時の対応に気に入らない所があり、そんな話を作ったのではないかと、武蔵を研究していた原田夢菓史氏は著書「真説宮本武蔵」で述べていました。


混ぜた生地を胡麻油で焼く。

剣豪の養子ですから、かなりの達人と思いきや、剣技に関する逸話はほぼありません。
どうやら武よりも文の人だったらしく、有能な官吏。
豊前小倉の領主、小笠原忠真に仕官。
島原の乱では侍大将として出陣。文の人と書きましたが、それでも軍功を挙げて加増。最終的には四千石という大身となり、小笠原家の筆頭家老に昇進。
因みに養父の武蔵も島原の乱に軍監として出陣。この時、一揆勢の投石が脛に当たり負傷しています。


焼けてきた。

小笠原家が小倉の領主となる以前、細川家が小倉を治めていました。
その頃に行われたのが巌流島の決闘。更に晩年の武蔵が客分として迎えられたのも熊本に移った細川家。
そうした縁があり、伊織は細川家の危機を救ったことがあります。
武蔵死後のこととなりますが、慶安二年(1649)に細川光尚が31歳で死去。跡継ぎの六丸はまだ6歳ということから、細川家は減封や改易の危機。この時、細川家の筆頭家老、松井興長が縁戚である小笠原家に細川家存続の支援を依頼。主君、小笠原忠真の命で伊織が6歳の六丸を支援することで細川家は改易を逃れました。
松井興長とは一般的には長岡佐渡の名前で知られ、吉川英治の「宮本武蔵」にも登場。武蔵の支援者で巌流島の決闘の立会人。養父が受けた恩に伊織は報いたということ。


韮チヂ宮本伊織

この生地の量で大きさによりますが、三枚から五枚位は焼けます。
米粉だけだとせんべいみたいになりそうだったので片栗粉を同量、混ぜました。おかげである程度のもっちり感。
自家製ポン酢をベースにしたタレも酸っぱ辛く、よく合います。
韮には抗酸化作用が強いビタミンEが豊富。アリシンには殺菌作用。ビタミンB1やCも豊富。カルシウムも含まれています。
干し海老からもカルシウムやキトサン。十分な栄養食。
米粉なので主食としてもいけるかも。

孤独に生き、決闘ばかりしてきたように思われがちな宮本武蔵ですが、決してそうではなく優秀な血縁者や人の縁に恵まれた人物で、宮本家を小笠原家の筆頭家老の家として遺し、剣技は熊本の弟子達に遺しました。
「我が名は小倉に、剣は熊本に」ということ。

武蔵にはもう一人、養子がいたようですが、そちらについては事績がよくわかりません。

伊織の家系はその後、主君である小笠原家から養子を迎えたこともあり、幕末まで筆頭家老の家として存続。見事に武蔵の期待に応えて家を遺したことになる。
剣豪の養子となりながらも、剣ではなく文治にて家を遺した宮本伊織を妄想しながら、韮チヂ宮本伊織をご馳走様でした。

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