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落花生め島津久光

落花生、ビールのお供とか間食に食べる物というイメージが強いのですが、これをご飯と共に炊き込むというアイディアをこちらの記事で見て、自分なりのアレンジで料理しながら、明治維新の中心となってもおかしくない位置にありながら、何故か明治政府には反発を示した殿様を妄想した記録。

藤野 知枝さん、ありがとうございます。


材料

米        1・5合
落花生      200グラム
オイスターソース 大匙1
醤油       小匙1
酒        小匙1
胡麻油      小匙1

文化十四年(1817)島津斉興の五男として誕生した晋之進が後の島津久光。生母の由羅は側室、出生は五男ということから家督を継ぐ見込みはほぼなく、種子島家や島津分家に養子に出ていました。
しかし兄で嫡男である斉彬と父、斉興は不仲であり、父の意向もあったのか、久光を跡目にという一派。久光の母の名からお由羅騒動と呼ばれるお家騒動。
幕府の介入もあり、最終的には斉彬が家督相続。しかし兄弟仲は悪くなく、その後も久光は兄を支える。
斉彬についてはこちらをご覧下さい。↓

島津久光という人物、西郷隆盛を持ち上げるために実際よりもよくない評価をされている面がある。特に司馬遼太郎作品にはそんな傾向。
「薩摩にバカ殿なし」という言葉がありますが、久光もそれなりの見識と器量を持った殿様だった。

斉彬の死後、久光の子、忠義が斉彬の養子という形で島津宗家を継ぎ、久光は後見として藩政を担う。
島津家当主になったことはないままで国父と呼ばれる、実際に薩摩藩を代表する人物になったのですが、朝廷から官位も貰っていなければ、幕府から島津家当主と認められたこともない。
公式な肩書がないということは、対外的には在野の人と変わらないとも言える。(言い過ぎ?)


落花生を出来るだけ薄皮付きで殻から出す。少し失敗。

斉彬は藩兵を率いての上京を計画、その練兵中に倒れて死亡。その意志を久光は継ごうとしていたのですが、これに異義を唱えたのが西郷。
「只の地ゴロが朝廷に相手にされる筈もない」
地ゴロというのは薩摩言葉で田舎者という意味。
無位無官の者が権威や伝統を重んじる朝廷に相手にされる訳がない。痛い所をずばりと突かれた。
バカ殿ならば、頭に血を昇らせてすぐさま切腹とか斬首を申し渡す所ですが、そうはしなかった。
結局、西郷は久光の命で島流しになるのですが、それは無断で大坂に向かったことを咎めてのこと。一時の感情で人を罰するようなことはせず。道理に反した時だけ鉄槌。


研いだ米、調味料を含めて浸水。その上に薄皮付きの落花生を乗せる。

うまくいく訳がないと西郷に揶揄された久光の上京、更に江戸行ですが、意外にも成功。
要求した政治改革、具体的には一橋慶喜の将軍後見職就任や松平春嶽の政事総裁職就任等を実現させ、これは文久の改革と言われる。
島津久光は公家と武家が協力して難局に当たるべしという公武合体派。自分が朝廷と幕府の調停役になったという自負を得て、意気揚々と国元に帰る途中で起こったのが生麦事件。
久光の行列をイギリス人四人が騎馬のまま遮ったということから無礼打ちにされた事件。
神州日本を異人が闊歩するのを快く思わず、しかも大名行列を遮るという無礼は許しがたいということ。
このことからわかるように攘夷派ですが、過激な尊王攘夷には反対。島津家中の過激派を粛清させた寺田屋事件がそれを物語る。


炊き上がり。

公武合体を旨としていたことからわかるように、久光は守旧派。あくまでも改革によって国体を維持して諸外国に当たるべしとの考え。
しかし薩摩藩で国事に奔走する精忠組と呼ばれる下級武士、特に西郷や大久保利通は現体制をすべて引っ繰り返して、世の中の仕組みを反転させる革命派。フリーメイソンとかDSに唆されてのことでしょう。
根本的な所で主従の思想は異なっている。
それでも多くの嘆願もあり、精忠組の中核だった西郷の処分を止む無く取り消して呼び戻す。
この決断をした時、久光が咥えていた銀の煙管にはくっきりと歯形。文字通り歯噛みする思い。あくまでも個人の感情よりも公の秩序や人の能力を重んじる。


落花生め島津久光

オイスターソースと胡麻油で何となく中華風な甘みある味わい。醤油の塩気もよく、落花生の食感がいいアクセントになり、ご飯も美味い。
落花生の薄皮にはレスベラトールというポリフェノール。これは赤ワインにも含まれる心臓や血管の衰えを防ぐ成分。落花生は食物繊維も豊富。

時勢の変化から公武合体は成らず、久光も倒幕路線に舵を切る。というより西郷や大久保に誘導された?
現幕府や将軍が当てにならないのならば、有力な大名や公家の合議による新たな政治体制、ことによれば自分が主導権をと久光は考えていた?
「おい、俺はいつ将軍になれるんだ?」と家臣に訊ねていたなんて話があります。
島津家は源頼朝の庶子が御先祖という伝承があり、源氏の一族なので一応、征夷大将軍になる資格はある。本当に征夷大将軍になる気はなくても、自分が率先して日本を牽引する位の気概はあったかもしれません。

しかし幕府が倒れた後に成立した明治政府は久光が考えた政体とはまったく異なる。久光はあくまでも日本の伝統を保ちつつ諸外国と伍していける国を目指していたのではないか?
そのため、急速に西洋化を進める政府には大反対。
断髪令や廃刀令が出て、多くの人々が洋服に着替えても生涯、髷を落とさずに帯刀、和装を貫く。
版籍奉還、つまり大名が治めていた土地や人民を政府に戻す改革を通達された時には、自分を知藩事にせよと要求。しかし、これでは殿様が治めていた頃と変わらないということで却下される。
版籍奉還が断行された時、久光は自邸の庭で一晩中、花火を上げさせた。憂さ晴らしか抗議か。
大勢には何の影響もない行動ですが、私はそういう意味のないツッパリ、嫌いではないです。
「西郷と大久保に騙された」と久光は生涯、語っていました。
気付けば、家臣だった大久保達が政府を主導していて自分は蚊帳の外。下剋上?戦国の世なら首を取られていた?
兄が見出した西郷や大久保を使い、日本を変えたものの、自身が望んだ方向にはいかなかった悲劇の殿様、島津久光を妄想しながら、落花生め島津久光をご馳走様でした。

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