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水戸黄門炒め

人生、楽ありゃ苦もあるさ。涙の後には虹も出る。
「この紋所が目に入らぬか」ということで三つ葉と言えば、三つ葉葵。この紋所が最後の決め手であった水戸黄門。本名、徳川光圀を妄想しながら三つ葉を料理した記録。


材料

三つ葉      2束(茎と葉に分ける)
和辛子マスタード 小匙2
卵        2個
ツナ缶      2
出汁つゆ     大匙2

水戸徳川家初代、徳川頼房の三男として生まれた光圀ですが、本当は生まれない筈でした。どういうことかというと、父は「水にせよ」と命令。堕胎を命じていました。
子を孕んだ高瀬局を哀れんだ家臣の三木之次は密かに保護して無事に出産。
頼房は正室を迎えておらず、高瀬局は正式な側室でもなかったからと言われます。
生まれる前から、更に生まれてからも大人の事情に振り回されることに。
何故か頼房は長男がいるのに、三男の光圀を後継者に指名。大名の跡継ぎとしての教育を受けさせるために江戸へ送りました。


調味料を混ぜ合わせておく。

光圀が優秀だからという訳ではありませんでした。次男は早世していましたが、長男と光圀は同じ母からの出生なので、母の身分の差でもない。どういう事情かは諸説あって、はっきりしません。
生まれる前から邪魔にされ、今度は兄を差し置いて後継者。勉強を強いられる。この複雑な環境から光圀はグレました。
やたらに刀を振り回し、吉原に入り浸り。
吉原に行く途中には浅草があります。その辺りには非人の居住区。つまり被差別部落。
寺の床下で寝ていた非人を仲間達と引きづりだして、辻斬りをした話が伝わります。
「私も命が惜しい。どうか無体は止めて下さい」と命乞いされるものの、
「許せ」と告げて一刀両断。
人も切れない臆病者と仲間達に言われたくなくて、やったことかもしれません。戦国時代から遠くない頃、殺伐とした風がまだ残っていたのでしょう。


卵を溶きほぐす。

司馬遷の史記、特に『伯夷伝』を読んで感銘を受けて、光圀は荒れた生活を改めることに。伯夷とは平たく言えば、兄を差し置いて王になった中国の人物。この境遇が自分に重なった?
それからは勉学に励み、やがて無事に水戸徳川家を継承。
儒学や日本の歴史に熱中。学問が広がれば、世はよくなると思ったのかもしれません。『大日本史』という神代からのこの国の歴史を編纂する事業を開始。日本版の『史記』を目指した?これを志したのは正保二年(1645)、この壮大な事業は代々、水戸藩に引き継がれ、完成したのは261年後の明治三十九年(1906)


卵を半熟まで炒めて、取り出しておく。

こうした事業を行うために現地調査に佐々助三郎や渥美格之進といった家臣を派遣。そう、彼等が助さんと格さん。光圀自身は殿様なので、また隠居してからも諸国漫遊などしていません。彼が行ったもっとも遠い所は鎌倉の英勝院。ここは父、頼房の養母、お梶の方の菩提寺。その法要?
そうした派遣費用や編纂のための施設運営費ですが当然、領民からの血税。実は水戸徳川家の税率は光圀が当主だった頃がもっとも高かったとか。


三つ葉の茎を炒める。

また、儒学も熱心に勉強。当時、中国では明が滅び、満州族が清朝を建国。
逃れてきた遺臣、朱舜水を保護。彼から製法を学んで、日本で最初にラーメンを作って食べたとも言われていました。
何故、過去形かというと、朱は水戸に行く前は九州の柳川で保護されていて、そこで作った筈だと主張した人がいて、こちらこそがラーメンの元祖だと言っていた時期。
ところが近年、光圀よりも200年程前に京都の僧侶がラーメンの元祖的な料理を作った記録が見つかったとかで、今や日本の国民食たるラーメンを最初に食べたのは柳川の誰かでもなく、水戸黄門でもなかったという線で落着?
ラーメン以外にも、ワインとか牛乳といった当時、珍しい物も光圀は試したとか。その原資も税?
質素倹約令を出したこともあったようですが、殿様がそれを守っていない?


葉も炒めてしんなりしたら、卵を戻し入れる。

また、当時、まだ未開の地であった蝦夷地、つまり北海道にも関心を持ち、船を派遣。米や酒を持って行き、塩鮭や熊、ラッコの毛皮等の珍しい産物と交換。珍しい産物だから、儲けが出たかもしれません。
このように光圀自身は諸国漫遊などしていないものの、彼方此方に人や船を派遣したことから、水戸黄門漫遊記が生まれたのかもしれません。


ツナと調味料投入。炒め合わせる。

隠居するに当たり、光圀は実子がいるにも関わらず、兄の子に水戸徳川家を継がせました。兄の血筋へと水戸家を戻したということ。
隠居後に権中納言に任官。中納言という官職、中国の官職に当てはめると黄門という役職に当たります。そこから水戸黄門ということです。
但し、光圀は権中納言なので正確には黄門ではない。
またドラマの決まり文句である「先の副将軍」というフレーズですが、江戸幕府には副将軍という役職はありません。


水戸黄門炒め

程よく火が通った三つ葉、茎のシャキシャキを残し、葉はしんなり。ツナと卵が控えめに盛り立てる。正に助さんと格さんのよう。
粒マスタードは辛いというよりも酸味が勝っている感じ。これは風車の弥七?
吸い物や卵とじ系の丼の添え物として使われる三つ葉を主役に持って来た料理。ビタミンAやC、鉄分も豊富。

思うに徳川光圀という人物、学問という理想を追ったものの、足元の現実をあまりよく見ていない傾向があったのではないか。殿様にはありがちなことかもしれませんが、庶民には頭上の理想よりも足元の生活が大事。

もう一変化。

水戸黄門サラダ。

残った水戸黄門炒めをマッシュポテトに混ぜれば、これまた極上なポテトサラダに変身。
少しパンチが欲しかったので、黒胡椒を少し散らして、更に美味しく。

上に立つ人は下々のことをよく思いやり、助けてくれる筈だという庶民の願望が、実像とはかけ離れた水戸黄門漫遊記を生み出したのだろうと思います。
そんんことを妄想しながら、水戸黄門炒めと水戸黄門サラダをご馳走様でした。

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