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永倉新八ャー飯

北海道の北見から取り寄せた玉葱が半端に残っている。炒飯を作るか。北海道と言えば鮭だろうということで、鮭を買って来て、玉葱と鮭を具に。


材料

玉葱    1/4
鮭の切り身 2切れ
大蒜    一欠け
卵     2個
冷やご飯  1合と1/4合
細葱    2本
白摺り胡麻 適量
胡椒    適量
塩     大匙1
醤油    小匙1

北海道、北海道に所縁ある新選組隊士を妄想しながら料理。
江戸時代、蝦夷地と呼ばれていた北海道に唯一、存在した藩が松前藩。
松前藩江戸定府取次役、長倉勘次の次男として江戸に誕生した新八。ガムシャラな性格だったことから、ガム新と綽名。
剣術好きが高じて、神道無念流を修行したものの、それに飽き足らず、心形刀流等、他流の道場にも出入り。


鮭を焼く。皮は剥ぐ。

長男が早世していたため、新八は跡取りとされていましたが、剣術好きが高じる余り、ついに藩邸を飛び出す。これにて脱藩扱い。それ以来、実家に迷惑が及ばないようにという配慮からか、姓の表記を永倉に。
長倉家というのは家老とも縁が繋がる、結構な家だったらしいのですが、それを投げ打っての脱藩。本当に剣術にガムシャラだったのでしょう。
彼方此方の道場を渡り歩いて、やがて天然理心流、近藤勇の試衛館に行き着き、食客として居つきます。


焼けたらほぐし、酒と摺り胡麻を加えて混ぜる。

新選組の元となった浪士組募集の話を最初に試衛館に持って来たのは新八とも言われます。
やがて京都に上った近藤勇一派は新選組の中核に。新八も二番組長として活躍。
新選組の名を一躍高くした池田屋事件では、新八は左手親指の付け根を斬られる重傷を負いながらも奮戦。


微塵切りの大蒜と玉葱を炒める。

新選組の第一線で戦い続けた永倉新八。しかし時勢は佐幕派には味方せず、やがて新選組は京都を退去。新八も皆と共に江戸に戻ることに。
江戸に戻った新選組の面々、勝海舟の命により甲陽鎮撫隊と言う名前を与えられて、甲府城を押さえて、新政府軍を迎え撃つ役目を受ける。
勝海舟は新政府軍に恭順の腹積もりだったので、近藤達のような主戦派がいては危ないので、体よく追い払ったということでしょう。
こうして、新八を含む新選組の生き残り達は甲府へ向けて進軍。ところが、一足遅く、板垣退助率いる新政府軍が先に甲府城を奪取。勝沼で一戦交えるも敗北。


溶き卵とご飯投入。

この後、新八は近藤勇と袂を分かちます。
近藤に家来扱いされたことにカチンときたとか。
新選組はあくまでも同志だった筈で、お手前の家来になった覚えはないというのが、新八の言い分。
その後は原田左之助らと靖共隊を結成。近藤達とは別れたものの、あくまでも旧幕府方として東北各地で新政府軍に抵抗。
それでも明治元年(1868)の11月には江戸に戻りました。その頃の話か、両国橋の上で鈴木三木三郎とばったり会ったという。鈴木三木三郎というのは、新選組によって粛清された伊東甲子太郎の弟。鈴木にしてみれば、新八は兄の仇の一人。その時は人目もあり、刃傷沙汰になるようなこともなく別れたものの、その後、暫くは新八の住居の近辺に鈴木らしき人影が現れることがあったとか。両国橋を含む動画。動く挿絵としてどうぞ。↓

両国橋での出会い、子母澤寛の著書に出てくる話ですが、面白い話はすべて私の創作ですよと子母澤寛は語っていたので、これも創作?
その後、新八は松前藩に帰参が認められ、藩医、杉村家の婿になり、名前を杉村義衛と改め、北海道へ移住。
新選組の永倉新八と身元が割れると身の危険があるからでしょう。そう考えると、両国橋での出会いももしかしたら本当?そのままの話でなくても、似たことがあった?

ほぐし鮭を投入。塩胡椒と共に炒め合わせる。仕上げに醤油を鍋肌に沿って回し入れる。

北海道では樺戸集治監で剣術指導。剣術好きは明治になっても変わらなかったようです。集治監とは今風に言えば刑務所です。看守に教えていたのか、精神修養として囚人にか?
北海道では小樽に居住、しかし東京にも行き来するようになります。その目的は近藤勇の墓碑建設。喧嘩別れのようになってしまっい、心残りだったのでしょう。やがて杉村義衛こと新八の奔走により、近藤終焉の地となった板橋に近藤勇を始め、新選組の慰霊墓が建立。
こちらの動く挿絵もどうぞ。↓

晩年の新八、小樽で隠居生活の傍ら、小樽新聞の取材に応じて新選組時代の話を聞き書きとして連載。
「浪士文久報告記事」とか「新選組顛末記」という書物として、新八の話はまとめられています。


小口切りの葱を散らして、永倉新八ャー飯

鮭には抗酸化作用があるアスタキチンサン、ビタミンD、E。
今更ですが、実はこの鮭、北海道産ではなくチリ産。(それを言っちゃあおしめえよ?)
血液サラサラ効果がある玉葱、タンパク源としての卵、こうした美味を食欲増進効果があるアリシンを含む葱で美味しく頂く。

晩年の新八は映画を好んでいたそうですが、映画館で地元のヤクザに絡まれたそうですが、鋭い眼光と一喝で退散させたとか。
日露戦争が勃発した時には、お国のために働きたいと従軍を申し出たものの、もう五十を過ぎていたので、丁重にお断りされたとか。様々な逸話が伝わります。
新八同様、明治の世まで生き残った斎藤一が何も語らなかったのとは対照的に大正四年(1915)に亡くなるまで様々な逸話を残し、新選組の顕彰にも努めた永倉新八を思いながら、永倉新八ャー飯をご馳走様でした。

斎藤一についてはこちら。↓


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