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深くておいしい小説ってやっぱり『拳をギュッとね理論』で出来てるよね。

まあ、いろんな小説がありますからね、あくまで一条件といいますか、イメージといいますか、振り返ると「ああ、なるほど」って思うかもしれない一例なんですけどねw

まず、そもそも、自分だけのレンズで、自分だけの角度で、世界の景色や、真理や、痛みや、「どうしてなんだろう?」みたいな違和感、オンリーワンな問いかけ等を、ギュっと掴める作家性があることが前提なんですが。これはもう持って産まれた先天的な資質やらセンスやら後天的に芽生えたもの含めて、深いもの掴めてなかったらどうあがいても深くはならないのでw そこは各自あれしてくださいw 今回言いたいのはそこじゃないのでw

前にもどこかで書きちらしたことはあると思うんですが、高橋源一郎も言っていた通り、まずそうやって小説はつかまえるものなので、ギュッつかまえちゃったとする。ギュッとね。捕まえておいて隠すの。彩とか、においとか、いろいろ出ないように隠す。真っ暗、あるいは、モノクロになるくらい隠す。

隠してあるけど確実にそこにはあって、まだ一行も書かれていない状態ね。

で、深くておいしい小説を書ける人というのは、ここから構成を練るのがお上手なのね。一番つかまえたものを浮き彫りにするために、どこの指から開いていくか、次にどの指を開くか、って考える。開いていくたび小説内の世界がたちあらわれて、景色も徐々に色づいていって、やおら風や匂いまで運んでくるようになるわけで(推理ものなら、トリックや犯人をギュッとつかんでて、ひとつひとつ証拠がうまい順番であらわなっていくわけね)

セオリー通りに小指から順々に種明かししていく人もいれば、トリッキーに薬指から開いてチラミせして、ミスリードさせておいてから、バッと一気に開いて、実はこうでした!とカタルシスを味あわせる人もいるでしょう。

とにかく、指の開き方にかかってるんですよ。おいしい小説ってのはするする読めちゃうわけ、次どうなるか知りたいし、もうその指の開き方に釘づけにされて、宙づりにされて(それをサスペンスというのね)、吊るされたまんま最後まで読まされて、開ききって明かされた真理が尻の持って行きようのないほど深い思想や哲学に満ちていたら、深くておいしい小説の完成になるわけね。

ドストエフスキーの「罪と罰」はまさにこれだなあ、と思う。思想の実験的にも深いし、その見せ方やドラマも実にスリリングでサスペンスがきいてて、面白い。さすが近代小説のひとつの頂点だと思う。もう脇役の人も主役みたいに、生き生きしてて、生きてるしね、その世界で。みんな一個の実存を生きてる。だから、そこの街そのものが生きたまま心や脳の中で立体化して、生き続けちゃうものね。まあ、それは余談だけどもw 

ともあれ、指の開き方――つまりは構成であり、プロットの立て方なんだろうけど、掴んだものがあるときはこうして逆算して、一番いい見せ方を検討できるし、うまい人というのは本当にこの配分が絶妙で舌を巻いちゃうわけ。逆にいうと、順番間違えちゃうとふいにしらけちゃったり、ネタバレしすぎて読者を宙づりにする力を失って、最後まで読んでもらえなかったりもする。

だから、作家に向いてる人っていうのは、この「どの指から開いて見せたら面白いかなあ」ってことを考えるのが好きな人なのかもしれない。

以上、突発的発作的『拳をギュッとね理論』でございました。












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水もしたたる真っ白い豆腐がひどく焦った様子で煙草屋の角を曲がっていくのが見えた。醤油か猫にでも追いかけられているのだろう。今日はいい日になりそうだ。 ありがとうございます。貴方のサポートでなけなしの脳が新たな世界を紡いでくれることでしょう。恩に着ます。より刺激的な日々を貴方に。