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スルーは、ダメ。ゼッタイ。 〜カルべ・ディエムな生き方〜

あした、社長に退職届をだす。
秋だ。別れの季節が今年もやってきた。


「三十代前半までは、自分が面倒だと思う人ととにかく一緒に仕事をしろ。それが十年後の自分の幅を広げるぞ」

と、前職の上司に言われた。
たしか、日本橋近くの長崎ちゃんぽんのカウンターでのことだった。
ただでさえ夏の暑い日に熱々のちゃんぽん。
加えて、心臓が変な声をあげそうなこの暑苦しい言葉に、僕は素直にうなずくことができなかった。
何を隠そう、僕が一番面倒だと思っていたのは、隣でちゃんぽんを啜っているその上司に他ならなかったから。
でも、その言葉には一理あるかもしれない。
その人のおかげで、僕は心を無にして「そうっすね」と自動応答できるようになった。華麗なるスルースキルを手に入れたのだ。
これは、確かに一生モノの力になると思う。


しかし、この言葉は本当に埃っぽい。
面倒な人は、総じて他人に面倒をかけていることを自覚していない。
いわば、ワガママを押し通して生きているのだ。
どうしてそんなやつらのワガママに、いつ終わるともわからない自分の人生を費やす必要があるのだろうか?
どうして、僕はワガママを言ってはいけないのだろう?


きょう、出口治明氏の『哲学と宗教全史』を読んでいて、ルネサンス期の哲学についてのページに至った。
カバンの中に入れておいた汗拭きシートの蓋が開いていて、背表紙から後半100ページほどまで爽やかなミント臭が漂っているこの本。とにかく読み応えがある。
本によると、というか史実によれば、南イタリアでペストが大流行した。
このとき、生まれた二つの相反する死生観はご存知の通り「メメント・モリ(死を想え)」と「カルべ・ディエム(一日の花を摘め)」。
儚い人生を敬虔に生きる「メメント・モリ」と、いまこの瞬間を楽しむ「カルべ・ディエム」。
あなたはどっちを選ぶだろう? 僕はといえば、言わずもがな。である。


爽やかなミント臭のする、カルべ・ディエム。
一日の花を摘む。すごくよい。毎日花を摘んでいたいものだ。
もちろん、十年後がどうでもいいわけではない。
それでも、いつか摘めると考えているおぼろげな大輪の花は、一体いつ摘むことができるのか?
育てては摘んで、育てては摘んで、その小さな花を束にして飾るのではだめなんだろうか?
そもそも、十年後の自分の幅ってなんだ?
今を謳歌して、十年後も謳歌していたい。
それくらいシンプルでいいじゃないか、と今度はちゃんぽん屋の上司にスルーしないで言ってやりたい。


そんなこんなで、僕は明日社長に退職届を叩きつける。
もうワガママには付き合わないぞ、と堅く心に誓ったのである。
ここ数ヶ月の心労で、一気に老け込んだ気がする。
しかし、いつかこれも笑い話にして、十年後には酒のつまみに笑っていたい。
スルーなんてかっこ悪いじゃない。
そんなのダメ、ゼッタイ。だ。

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