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ブラックフォーマルとレクイエム

人が亡くなったとき、僕らはどう対処すればよいのだろう。


先日、通夜に参列をした。とある不幸があったのだ。
ここ最近、暑さから全く着ることのなかったブラックフォーマルを、クローゼットの中から取り出す。おそらく、久しく会っていない友人たちとも出会うだろう。再会は、どうせならば明るい飲みの席がよい。そんなことをぼんやり思いながら、少しホコリくさくなったスーツに腕を通した。

開始の時間ギリギリに、すでに列をなしていた最後尾についた。突然の土砂降りに遭ったこともあったが、単純に場所を間違えて予定を大幅に遅れたのだ。

読経の途中、数回頭をさげてしめやかな顔で焼香をする。親族は、顔を伏せて静かに泣いていた。焼香台の目の前には大きな写真が飾られていて、棺は色とりどりの花で飾られる。その前では、ブラックスーツの人たちが繰り返し焼香を続けていて、その黒と棺の花とのコントラストがやけに強いから、僕の内耳はボーッと音をたてていた。

焼香が終わり、会場を移して寿司を食べる。精進落としには寿司を出す、というのはいつから決まっているのだろうか。先程までのしめやかな雰囲気とは打って変わって、皆がビール片手に談笑していた。一種の同窓会のような、懇親会のような、そんな雰囲気すら感じる。

その姿を別に咎めたいわけではなくて、ただ単純に「こういうときに、どうすべきなんだろう」ということを思い、なんだか妙な気持ちになったのだ。笑っていいのか、よくないのか。話していいのか、よくないのか。故人のことを忘れずに思い続けるべきなのか、忘れてたまに思いだして懐かしむのか。
「どう対処すればよいのだろう」と、ただただ悩んでいた。

そうこうしているうちに、他の人たちよりも早く帰ることにして、返礼品を受け取った。その紙袋を受け取った僕は、僕が、一番最初に文章を書きたい、と考えたときのことをふと思い出した。


身内の不幸を始めて経験した中学2年生。祖母の死がものすごくセンセーショナルな出来事で、以降、僕の人生を大きく変えるものだと確信していた。その証拠に、僕はレクイエムというものをそのときに初めて書いた。たぶん、ミスチルの”終わりなき旅”が、レクイエムだということを誰かに聞いたばかりだったからだろう。自分で適当につくった曲を口ずさみながら、自分の心境をただただ書き記した。

いま思えば、俗に言う”厨二病”というやつだったかもしれない。わざわざクオーテーションをつけるほどのものでもない、ただ、いまでも心に引っかかっている一節。

他人にとっては隙間風のようでも、僕にとってはダンプカーにはねられた気持ちみたいだ

上手くもないし、この詞を書き記したはずのお気に入りのノートなんてとうになくしてしまった。けど、この言葉が妙にあの通夜のときの心境とリンクをしていて、どうしても何かにこの気持ちを残しておきたいと思ったのだ。


他人にとっては隙間風、親族にとってはガツンとやられたような気分で。
泣いてばかりいることが正しいこととは思えないけど、それでも寿司を食べてビールを飲んで談笑をしてが、たった数10mしか離れていない部屋で行われるのも、なんだかなあという気持ちになる。
たった、それだけ。それ以上でも以下でもなくて、「なんだかなあ」という気持ちだけが宙に浮いている。寒くなってきて、すこしそういうことを考えるようになったのかもしれない。


悲しいことに、明日も通夜にいくことになった。今年は、なんだか慌ただしい。
人が亡くなったあと、果たして僕らはどうすべきなんだろう?

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