見出し画像

「空飛ぶ鯨」を解体する

はじめまして。哲学科で美学・芸術学を学んでいるAZCIIと申します(リンクからTwitter(現X)に飛べます)。
この文章は、UT-virtualが駒場祭にて頒布した部誌に私が寄稿した論考を、designing plus nine のアドベントカレンダー2日目の記事として使い回し公開したものです。note初投稿のため勝手がよく分かっておらず、加筆修正等もあるかもしれませんが、ご承知おきください。

ヘッドセットを装着する。瞑っていた目を開くと、広大な仮想世界が眼前に拡がる。ふと遠方を見遣ると、巨大な鯨が悠然と空を泳いでいる——
 XRに何らかの関心を持ってこの部誌を手に取っている読者の方であれば、このような「仮想世界への導入」の情景を容易に思い描くことができるだろう。あるいは、何か特定のコンテンツ体験を想起するかもしれない。
 2023年現在、XRコンテンツに「空飛ぶ鯨」を取り入れる演出は、もはや決して目新しいものではなく、むしろ陳腐なクリシェとして冷笑的に言及されることすらある。その一方で、「なぜ鯨を飛ばすのか」という具体的理由に踏み込んだ言説はほとんど見られず、せいぜい「大きくてインパクトがあるから」といった見解が示される程度である。
 「空飛ぶ鯨」というモチーフが様々なXRコンテンツにおいて広く採用される理由を、単にその巨大さによる視覚的インパクトという身も蓋もない特性に帰すことは、いささか軽率であるように思われる。ライトユーザー・大衆に向けたプロモーションの場で「空飛ぶ鯨」が積極的に用いられている実状からして、物理的世界に生きる我々の現実的な——言葉を選ばずに言うならば貧弱な——想像力が、「XR」なる魅惑的な世界に抱く期待・理想を、「空飛ぶ鯨」という表象に仮託していると考えるべきであろう。
 では、そこに仮託されたものは具体的に何であろうか。本稿ではこの問いに答えるべく、まず、XR関連のコンテンツ・プロモーションにおける「空飛ぶ鯨」の具体例を参照し、考察の起点とする。次に、XRに限らず、広くフィクション一般に描かれた「空飛ぶ鯨」を取り上げ、その演出上の特性を探る。そこからさらに、フィクションにおける(空を飛ばない)鯨一般に考察範囲を拡大し、人間が鯨にどのようなイメージを抱き、それをいかに表象してきたのかを分析する。
 後半部ではこの分析を踏まえ、XRそれ自体の特性が「空飛ぶ鯨」表象といかなる点で符合するのかを指摘し、さらに「他の表象ではありえなかったのか」という視点からここまでの考察を批判的に見直すことで、XRにおける「空飛ぶ鯨」の表象がいかなる論理のもとで選択され、普及するに至ったのか、その過程と必然性を提示する。

XRの「空飛ぶ鯨」

一口に「XRの鯨」と言っても、その内実は大きく2つに分けられる。すなわち、ストーリー性のある作品の舞台となる仮想世界に登場するものと、ストーリー性を必要とせず、XRそれ自体のプロモーションとして描かれるものである。
 前者の代表例として、ここではアニメーション監督である細田守の作品を取り上げたい。細田は、『サマーウォーズ』(2009)と『竜とそばかすの姫』(2021)の二度にわたって仮想世界を舞台とした作品を制作している。そして彼の描く仮想世界「OZ」と「U」では、「空飛ぶ鯨」が世界/物語の重要な象徴として登場する。
 『サマーウォーズ』における仮想世界OZには、世界の「守り主」として、2頭の巨大な鯨「ジョンとヨーコ」が描かれる(図1)。平時にはただOZの空間をゆったりと泳ぎ回っているジョンとヨーコは、物語の進行の大半には関与しない。しかし、クライマックスにあたる敵対性AI「ラブマシーン」との決戦では、突如主人公サイドに「特別なアバター」を授け、その勝利に貢献する。
 一方『竜とそばかすの姫』に登場する鯨は、映画冒頭、仮想世界Uの歌姫である主人公「Belle」がその上で歌唱するステージ兼スピーカーのような形で、大量の音響機器を纏った姿で登場する(図2)。この「空飛ぶ鯨」も、映画の進行に特筆すべき影響を与えるものではない。しかし物語終盤、正体を暴かれたBelle(すず)が生身の姿で歌唱を始めると、Belleとしてのアイデンティティを喪失したことで文字通り「宙に浮いていた」彼女を、上述の鯨が不意に掬い上げ、Uと彼女との紐帯=足場の再獲得を暗示するという重要な役割を果たす。
 以上の2作品において「空飛ぶ鯨」は、どちらも「はじめから世界のシステムとして存在し」、「平時には人間の営みをただ見守り」、しかし「有事の際には突如それに干渉し、人間には不可能な仕方で問題を解決する」圧倒的な存在として描かれている。

図1:ジョンとヨーコ
図2:スピーカーを纏った鯨

 XRそれ自体のプロモーションとして描かれる「空飛ぶ鯨」の事例としては、Psychic VR Labが運営するXRアプリ「STYLY」のWebサイトと、今年10月に開催されたXRクリエイター交流会「REALITY CAMP」のバナー広告を挙げる。
 STYLYのサイトにアクセスすると、「想像の世界をぐっと身近に」というフレーズと共に、渋谷スクランブル交差点の上空を泳ぐ巨大な白い鯨のGIF画像が表示される(図3)。一方REALITY CAMPのバナーでは、キャンプ場で焚き火を囲む人々の上に、非物質的な水色の鯨が描かれる(図4)。それぞれ最も目につきやすく、「XRに関連する何かである」ことを一目で認識させるためのコンテンツであらねばならないトップページ・バナーに「空飛ぶ鯨」を描く以上、当該コンテンツのクリエイターがXRと「空飛ぶ鯨」の間にただならぬ連関を見出していることは明らかである。

図3:"STYLY"トップページより
図4:"REALITY CAMP"バナーより

 「序」の繰り返しとなるが、本項で挙げた4つのコンテンツは全て、決してXRヘビーユーザーのみに向けられたものではなく、むしろ広く一般に向けて発信されているものである。すなわち「XR世界に鯨が飛んでいる」情景は、インパクトがありつつも誰もが違和感なく受容できるものなのだ。もちろん後者のプロモーション事例2つに限定すれば、細田守によって一般に広められた「XRの空飛ぶ鯨」イメージをクリエイターが単に利用したという可能性も考えられる。しかしそれでも、細田守作品自体に「空飛ぶ鯨」が繰り返し登場することの説明にはならない。XRと「空飛ぶ鯨」には、いかなる繋がりがあるのだろうか。
 ところで我々は、「空飛ぶ鯨」の表象がXRに固有のものではないという事実にも留意すべきである。我々が生きる世界にせよ、フィクションの世界にせよ、XRの介入が明示されない物理現実世界に「空飛ぶ鯨」が登場する事例は数多く存在するのだ。そこで次項では、XRという限定を外し、フィクション一般における「空飛ぶ鯨」表象の事例を参照し、本項で述べたXRの「空飛ぶ鯨」との共通点・差異を探ることにしよう。

フィクション一般の「空飛ぶ鯨」

筆者の調べる限りではあるが、「空飛ぶ鯨」がフィクションに登場するのは、意外にも20世紀後半のことのようだ。世界初の「空飛ぶ鯨」は、1961年に出版されたスペインの童話『Adiós, Josefina(さよならホセフィーナ)』である。これは後に日本でも『くじらのホセフィーナ』(1979)としてアニメ化されるほどの有名作品であり、世界的な「空飛ぶ鯨」のイメージの普及に貢献していると言える。ちなみに日本では、中川李枝子の『くじらぐも』(1971)が最も古い事例である。こちらは小学校の国語の教科書に現在でも掲載されており、国内における「空飛ぶ鯨」イメージの源泉はここに見出せるかもしれない。また1974年にはフォークデュオ「ちゃんちゃこ」が『空飛ぶ鯨』で大ヒットを記録している。「海よりも広い大空 夢を求めて飛び立った」「大空が暗くなるほど 鯨で空は埋った」といった歌詞は、現代の我々が抱く「空飛ぶ鯨」のイメージにも合致する。
 また、鯨は地球の空のみならず、宇宙空間へも飛び出す。1978年にラジオ放送を開始し、後に小説化されたダグラス・アダムス『銀河ヒッチハイク・ガイド』の表紙には宇宙空間を飛ぶ(実際の物語では「放り出された」と言った方が正しいのだが)鯨が描かれている。また、本物の鯨ではないものの、1997年からNHKで放送された『白鯨伝説』は、廃宇宙船を鯨に見立て、それを追う「鯨捕り」たちを描く。「宇宙を泳ぐ鯨」は、深い海と宇宙の「無限なるもの」としての類似性から導かれたイメージであると言えるだろう。
 デジタルゲームでは、『ゼルダの伝説 夢をみる島』(1993)が好事例である。この作品のキーキャラクター「風のさかな」は、明らかに鯨をモチーフとした造形をしている。特筆すべきは、「世界は『風のさかな』が見ている夢であり、彼が目覚めれば消えてしまう」というこの作品の構造である。眠り続け、物語の途中では積極的な関与を見せない「風のさかな」が、作品世界それ自体を揺るがす影響を及ぼす存在であるという構図は、前項で述べた細田守作品の仮想世界における「空飛ぶ鯨」の役割と見事に合致する。
 また直近の事例として、桑原太矩の漫画『空挺ドラゴンズ』(2016〜)を挙げる。この作品の主軸として描かれる「龍捕り」のプロセスは、捕鯨のそれを忠実になぞる。そしてこの作品において「龍」は、どこからともなく突然出現し、個人の力では抗いようのない力で甚大な被害をもたらす脅威でありながら、その神秘性や偉大さから崇められてもいる、作品世界の中心をなす存在なのである。
 以上のように、数多くの作品で「空飛ぶ鯨」の表象が確認される。そして、多くの作品では、XRの場合と同様、「世界のシステム」「人間社会との希少かつ重大な接触」という特徴が見られる。さらに歌曲『空飛ぶ鯨』からは、「自由の象徴としての『空飛ぶ鯨』」というイメージも導けるだろう。
 また、捕鯨をモチーフとした作品が複数見られたように、「空飛ぶ鯨」表象の成立には、人間が鯨それ自体に抱くイメージが色濃く影響していると考えられる。次項ではこの源泉へと遡るべく、人間が鯨をどのような存在として表象してきたのかを振り返る。

「鯨」のイメージ

鯨やそれに類する「巨大な海獣」は、世界各地の神話や宗教説話におけるポピュラーな題材であり、これらは「神の使者」あるいは「神自身・世界それ自体の象徴」として描かれることが多い[1]。自然発生的な成立過程をとる神話や、民衆による受容を企図して語られる宗教説話におけるこのような共通性は、実際の鯨に対して人間が抱くイメージの発露として捉えられるだろう。
 旧約聖書のヨナ書では、嵐を鎮めるため海に飛び込んだ預言者ヨナを救うべく神が遣わし、彼を呑み込んで嵐から逃れさせる存在として「大きな魚」が登場する。これはディズニー映画『ピノキオ』(1940)に引き継がれるモチーフであり、「人の世の事柄を全て呑み込む圧倒的に巨大・崇高な存在」としての鯨の原型と言える。
 ハーマン・メルヴィルの小説『白鯨』(1851)は、エイハブ船長率いる捕鯨船の乗組員と白鯨モービィ・ディックとの死闘を描く。物語内でモービィ・ディックは圧倒的な力を持つ存在として描写され、決して人間に屈することなく、最後は捕鯨船を破壊してエイハブを海中へ引きずり込む。ここで鯨が「人智の及ばぬ圧倒的存在」として表象されていることは言うまでもないが、それに加え、モービィ・ディックがエイハブにとって唯一の存在意義=「世界」であることや、クライマックスにおいて乗組員の「世界」たる捕鯨船をモービィ・ディックの一撃が破壊することに、繰り返し述べてきた「世界を覆す存在としての鯨」を読み取ることもできる。深海を泳ぐゆえに普段は目撃されず、その出現が吉凶の予兆とみなされる存在である鯨は、「突如として現れ、世界の理それ自体を決定的に変容させてしまうもの」、すなわちデウス・エクス・マキナの役割を担わせるものとして最適だと言えるだろう。
 ここまでの議論を総括しよう。我々は、鯨それ自体に「人の世の理が通じず、世界それ自体として、あるいは世界を司る存在の使者として、圧倒的な力で全てを呑み込み、覆しうる存在」としてのイメージを抱く。そして「空飛ぶ鯨」には、世界の避けえぬ原理たる重力を克服し、体をばたつかせることなく悠然と空を泳ぐことによって、「自由の象徴」という性質が宿る。そして、人類の文化史を通じて涵養されたこのイメージは、細田守の描く仮想世界において、文脈の外部から物語を決定的に展開させ終局へと導くデウス・エクス・マキナとして、XRへと持ち込まれたのである。


[1] (河島基弘, 2011, p. 8)


XRと鯨の親和性

前項までは「空飛ぶ鯨」の特性を述べたが、ここで本稿のもう一つの軸である「XRそれ自体の特性」にも言及したい。XRはVR/AR/MRなど多数の概念を包摂する言葉だが、ここでは特に対象をVRワールドに絞り、「テクノロジーによって達成され、一人称的に没入できる仮想世界」について述べる。
 VRワールドの第一の特性は、「現実世界のあらゆる原理が相対化され、自由に設定できるようになる」ことである。重力などの物理法則や身体の構造、あるいは経済システムといった社会的原理に至るまで、そこではあらゆるルールが絶対性を失う。無論、実際には技術的制約が存在するが、この「原理的な」自由さへの期待は、VRに対して多くの人々が共有するところであろう。
 第二に、原理は常に変更可能であることが挙げられる。上述の通り、VRワールドの制作にあたっては原理を自由に設定することが可能だが、この自由さは、世界がすでに動き始めた後にも、「ルールの変更可能性」として維持される。現実世界の原理が不変のものであるのと対照的に、VRワールドの原理は常に変更可能性に開かれているのである。
 第三に、「世界が何者かの創造行為によって始まったものであり、その者によって全てが支配されている」ことへの共通認識が挙げられる。現実世界においては、世界は何者の意志にもよらず、自然発生的に形成されたものであるという認識が通用する。しかしVRワールドにおいては、(『The Matrix』(1999)のような特殊な場合を除いて)そのような認識は不可能である。あらゆるワールドには創造者が存在し、ユーザーは、そのワールドにおける原理や行為可能性などの様々な点で彼に支配される。クリエイターが顕現して何らかの目に見える効力を発揮することが無いにしても、ワールドには常に既に、ユーザーの上位存在たる支配者が存在するのである。
 以上の特性を踏まえれば、「空飛ぶ鯨」の表象が、XRのアイコンとして極めて適切なものであることが分かるだろう。表面的には自由を象徴しながらも、世界が「創造されたもの」であること、何者かの絶対的な支配下にあることを暗示し、全てを呑み込む圧倒的な力による世界の秩序の変容可能性を常に予感させる存在としての鯨は、世界に配置されることで、「原理の不在こそが唯一の原理である」というXRの特性を十全に体現する存在として機能するのだ。
 これに加え、「空飛ぶ鯨」は、重力に囚われない空間的自由を最もよく象徴する。我々人類は、飛行機や潜水艦といった技術的進歩によって、空や海、果ては宇宙に至るまで、空間を自在に行き来することができると言うのが一般の認識であろう。しかしよく考えてみれば、我々は決して、足を着けるべき「地面」から逃れることはできない。常に身体の下端を地面に(あるいは上端を天井に)制約されている以上、我々は決して空間を自在に行き来する存在ではなく、せいぜい起伏のついたXY二次元面の上を動き回っているに過ぎない。重力に縛られる我々にとって、垂直方向の移動は、決して水平方向の移動と等価にならないのだ。これに対して鯨は、彼らの領野たる海において、深海から海面までを自在に往還する。すなわち彼らには、自在に移動できるZ軸が存在する。垂直方向の移動能力を備えた生物としての鯨は、重力に囚われず、三次元空間を真の意味で自由に、等価に動き回るという、XR的な空間の自由を象徴する存在なのである。実際、『Fantasia2000 Pines of Rome』(1999)のクライマックスでは、海底-海面の関係が海面-雲海面に移され、空間を海中に見立てる発想が見て取れる。
 ここまで、XRのアイコンとしての「空飛ぶ鯨」の妥当性を、様々な角度から論じてきた。しかしこれだけでは、「空飛ぶ鯨」が選択されることの必然性を示したことにはならない。なぜなら、鯨以外にもこの役割を担いうる生物が存在する可能性が残されているからである。そこで次項では、論考の締めくくりとして、いくつかの生物が「空飛ぶ鯨」の代替たりうるかについて検討する。

鯨以外ではあり得なかったのか

大空を自在に飛び回る「鳥」は、自由の象徴として世界的に広く受け入れられている。しかし鳥は、重力に支配され、羽ばたくことなしに垂直方向の移動を達成できないという点において、前項後半で述べた「空間の自由」の象徴となりえないだろう。そもそも鳥には、鯨のような「人の世の理を超え、全てを覆しうる存在」という性格を見出すことはできない。したがって、鳥はXRのアイコンとして「空飛ぶ鯨」よりも不適格であると言ってよいだろう。
 次に、「魚」はどうだろうか。魚は生物学的特性の多くを鯨と共有しており、中には海中を垂直方向に移動するものも多い。実際、「空飛ぶ鯨」は「空飛ぶ魚」を伴って現れる場合もあるのだ。しかし、「空飛ぶ魚」がそれ単体でXRの象徴たりうるとは言えない。魚は鯨に比べ、スケール面であまりに矮小すぎるからだ。「一匹の魚が世界を司り、その命運を握る」というイメージは、なかなか抱きにくいだろう。新海誠『天気の子』(2019)では、雲の上の草原や、空高く舞い上がる陽菜の周囲を「空飛ぶ魚」が泳ぎ回る。しかしそれは、帆高と陽菜のミクロな「セカイ」という、極めて小さなスケールでのみ通用する自由の象徴なのである。
 最後に、「亀」を検討したい。亀は数多くの神話において「世界を支えるもの」として描かれ、その長寿から「人間とは異なる理を生きるもの」として崇められてきた。そのうえ、海中をゆったりと泳ぐ姿はある種の悠然とした雰囲気を感じさせる。鳥や魚と比べ、亀はXRのアイコンたりうる特性を兼ね備えているように思われる。しかしそれでも、鯨のように「突如として現れ、世界を呑み込む」イメージは認められず、さらに深海と海面を往還する習性も無い。やはり「空飛ぶ亀」も「空飛ぶ鯨」には及ばないと言えるだろう。

本稿では、種々のフィクショナルな鯨の表象を分析することにより、人間が鯨に対して抱く普遍的なイメージを「捕らえ」、それがXRの特性といかに符合するのかを論じることで、XRにおける「空飛ぶ鯨」表象の成立過程を「解体」した。言うなればこの拙い論考は、「XRの空飛ぶ鯨」に対する、筆者なりの「捕鯨」の試みである。「空飛ぶ鯨」はもはや、「大きくてインパクトがある」だけの存在ではない。現実に生きる我々がXRに抱く様々な印象や期待が複合的に投影された、分解可能な産物であることが理解されるだろう。
 解体された鯨は、食糧や油、衣服といった形で余すところなく活用される。「鯨に捨てるところは無い」というのは有名な言葉だが、それはXRの「空飛ぶ鯨」でも同様であってほしいものである。もしも読者諸氏が何かXRコンテンツを創作する機会があれば、無批判に鯨を飛ばすのではなく、「なぜ鯨を空に飛ばすのか」を批判的に考察し、なにか別の表現可能性を模索してほしい。そのために本稿で「解体」した素材が役立つなら、この上ない幸せである。

参考文献

河島基弘『神聖なる海獣 なぜ鯨が西洋で特別扱いされるのか』, ナカニシヤ出版, 2011
森田勝昭『鯨と捕鯨の文化史』, 名古屋大学出版会, 1994


追記:12/02 17:30
文中で挙げたものの他に「空飛ぶ鯨」に類する表象の面白い・古い事例があれば、コメント等でぜひ教えてください。よろしくお願いいたします。

12/17 18:30
「宇宙クジラ」の事例を短くまとめた記事が流れてきたので、追記しておきます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?