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日記。なんやかやゆうてしんどいのよ。

 昨日書いたように私の人生の最大のしんどさはこの「蓄積のなさ」やと思うんよね。片付けのできなさとか時間の守れなさとかはさ、意外とみんな慣れてくれるというかわかってくれるというか、「そういう人は他にもよおさんおるしね」ってなもんなんだけどさ、蓄積のなさ。これはしんどい。言うてもだれもわかってくれへんしな。目に見えてわかるもんちゃうからめっちゃみんなをがっかりさせたり悲しませたりするみたい。ごめんやで。
 その場しかないから目の前の人を大切にしたかったり、触れ合いたいという欲求は普通にあるけど、それ以上どう発展させていいのかよくわからない。長く一緒にいることで、言葉を交わさなくても安心や信頼を蓄積できるのが普通なのかもしれない。
 久々に出会った人の目に、かつての自分の残滓が映っているのを見てたじろいでしまう。誰かの記憶の中の自分に苦々しさを感じてしまう。

 まっとうに生きるということと人生になんらかの蓄積を生ずるというのはほとんど同義だ。自己連続性の得られない人生は責任とも達成とも無縁なのではないだろうか。

 私は私やん。と思ったところで「私って誰?」とツッコミが入る。誰なんでしょうか。色々と具体例を思い出してみると(昨日本を買い)(今朝顔を洗い)(買っておいたクリームパンを食べ損ねた)(私)、「そうかそれは確かに私だ、」と思ったりするのですが、しかしそれを常に「私」としてパッケージングしておいていつでも取り出せる状態にすることが苦手。たまによく知らない「私」に出会って自分でもびっくりする。

 あの時の私、その時の私、この時の私、それらを全部まとめて「私」に内包する機能が多分欠けている。それでもまぁ今まで生きてきて、突然体が誰かに乗ったれたように勝手に動きだしたりすることもないし、操縦席にいるのはつねに「私」なんだろう、という実感はある。でもたぶん知らない間に入れ替わっていても私は気がつかないし周りの人ももしかすると? 

 
 ほかにも朝に弱いとか睡眠時間が不規則とか色々困ることはあるんだけどさ。この連続した時間を感じるちからの弱さというのはもうどうしようもないわね。ほかのADHD民はいったいどうやって生きているのやろね。

 聞くところによるとドーパミンが時間の感覚を一定に保ってくれる力があるらしい。ADHDヒューマンはドーパミンの濃度が一定でないから時間が早く過ぎたり遅く感じたりするらしい。安定しない仕事量やパフォーマンスには理由があった。びっくり。一安心。

 投薬によって改善が見込まれるらしい。でも飲み続けないと生きてゆけないのだろうか。そもそも飲み忘れや保管が心配。周りの人が当たり前に感じている安心や充足を感じられないひけめ。持続しない自分の関心や興味を持てあましている後ろ暗さ。

 時間は連続していて不可逆で一定だ。という確信をもって生きてみたい。

 

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