パレスチナ人兄弟との思い出

[パレスチナ人兄弟との思い出]

オーストリアに留学していた時、WGでパレスチナ人の兄弟とともに暮らしていた。彼らとはキッチンや風呂トイレなど共有領域の掃除を巡って度々揉めたが、私が引っ越しをするまでの半年間、大切な交流もあった。その日々のことを思い出す。

留学初日、泥まみれのシャワー室に呆然とした私は、持参したタオルを雑巾にして床掃除をしていた。そうしないととても入る気になれなかったからだ。
床に這いつくばって泥を拭っていたら、シャワー室のドアが勢いよくバン!と開いて、大柄な男が入ってきた。「誰だ」と尋ねられて、びっくりして萎縮した私が、今日からここで暮らす日本からの留学生だとおどおどと返事をしたら、「日本人?!前にここにいた日本人はすぐに引っ越した、きみはいつ引っ越すのか?」と言う。
引っ越す予定はない、ここで暮らす、と言ったら、彼は「タレックだ」と名乗って手を差し出した。その後ろからもう1人、涼しげな目元の男が現れ、「イアド」と名乗り微笑んだ。

私は恐る恐るタレックと握手をして、「アズサ」と名乗った。タレックはイアドのほうを指して、「兄だ。ハンサムなのは俺のほうだが」と真顔で言った。私から見ると、ハンサムなのはイアドのほうに思えたが、そこは個人的な見解の相違だったのだろう。

彼らとの生活は、決して美談では済まなかった。

文化的習慣的差異による対立が度々起こり、私の持参した衛生観念はことごとく砕け散った。
限界まで汚されたキッチンに窓から鳥が入って来て、IHコンロに糞をしていくという事態や、小蝿が大量発生して壁という壁に張り付いていた朝、彼らのブーツから落ちた泥が黒い水となって床に溜まるシャワー室と、あげればキリがない。

他に、シリア人の男子学生とアメリカ人の男子学生もこのWGに住んでいたのだが、彼らも同様の衛生観念らしかった。つまり私が異端者だったのだ。
小蝿が大量発生していた朝、私は限界を迎えて、タレックとイアドの部屋のドアをドンドンと叩いて喚いた。「すぐに掃除をしてよ!!」。

眠そうな兄弟は、「ハエ?そのうち窓から出て行くさ」と取り合わない。半泣きの私が殺虫剤を求めて買い物に出ようとすると、シリア人の学生が「いまから君を助けるよ!」と言って掃除機で壁の小蝿を吸い込み始めた。そして「ほら!ハエは消えたよ!」(消えてない)とニコニコしているので、私は「私は原因を解決したい。ハエはまたやって来る」と恨みを込めて言い残し、買い物に出た。

しばらくして部屋に戻ると、タレックが上半身裸でデッキブラシを手にし、WGの共有領域を一所懸命に掃除していた。イアドも椅子にのぼって窓拭きをしていた。
「おう、アズサ」とタレックが汗を拭きながら出迎え、「掃除したぞ!これで文句はないだろ?」とフロアを指差した。確かにとても綺麗になっていた。私は万感の思いで彼らと力強く握手をして、「私、ここに住める!!」と叫んだ。


その頃の私は今よりも更にずっと無知で、不用意に彼らを傷つけてしまったことがあった。当時、サイードを読んで色んなことを「わかったつもり」になっていた私は、タレックとイアドに向かって、サイードの本は読んだかと尋ねたのだ。

タレックはしばらく私の話を聞いていたが、「そいつは俺たちの仲間じゃない」と静かに言った。私が尚も、でもサイードはこんな見解を持っていてーーとしつこく食い下がると、彼は、「アズサ、君がそいつの本や意見を正しいと思うのは自由だ。でも俺たちはパレスチナ人で、そいつはアメリカ人だ。それだけだ」と言って、話を切り上げた。

その時私はタレックの言葉を不満に思ってしまったのだったが、あの時、彼が「俺たちはパレスチナ人で」と言ったその言葉の重みを、後々になって何度も噛み締めることになった。
私は本から学んだことをもって、生身の人間の言葉を遮ってしまったのだった。
当時の私に、「パレスチナ」の一体何が見えていたと言うのだろう。

その後私は別の寮に引っ越したのだが、引っ越しの日、タレックとイアドにチョコレートの詰め合わせをプレゼントした。

タレックはハグをして名残を惜しんでくれたが、チョコレートのパッケージを手にして成分表をチェックすると、「アルコールが入っているチョコがある。アズサ、お前は相変わらず俺たちをわかっていない。アルコールがゼロのものをもってこい」と不満を述べた。
私は「きみは最後までうるさいよね」と言い返して、その場でパッケージを開けてアルコールを含んでいる種類を抜き取り、じゃあね、と手を振ってWGを後にした。

思えばW杯のときに中国人の友達を招くからお前が通訳しろと言われて、中国語はわからないと答えたら、「役立たずだな!」と言われたり、「お前は料理が下手だ!俺たちの作るスープのほうがずっとうまい!」と言われたり、本当に気の合わない奴ら!と私も思っていた。

でも、あの留学の日々を語ろうと思う時、真っ先に口をついて出るのは彼らとの思い出なのだった。
卒業旅行で再びあのWGを訪ねた時、彼らは既に引っ越していて消息が分からなかった。SNSにもいない。

いま、彼らはどこでどうしているのだろう。私のことを覚えているだろうか。サイードのことを偉そうに語ろうとしたあの無知な東洋人のことを、彼らは覚えているだろうか?

いま私は、ショーレムの本も読むようになった。ますます彼らからは遠くに来てしまったかも知れない。でも、会いたい、そう思う。

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