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ご近所の小さいお子さんたちがね、遊びにいらしたの(別居嫁介護日誌 #62)

介護が始まった当初から常に、義母とともにあった「お二階さん」に変化が現れた。

「あの方ね、最近お引っ越しされたらしいのよ」

義母がそう言い始めたのは、何がきっかけだったのか。何食わぬ顔で「そうですか」とあいづちを打つと、「でもね、困ったことに未だにちょくちょくうちにやってくるの」と義母がため息をつく。

「ああいう性癖っていうのはなかなか治らないものなのかしらね……。かわいそうに」

どうやら義母は「お二階さん」の盗癖に心を痛めているらしい。訪問介護を導入し、定期的にヘルパーさんの支援が得られるようになったおかげで、夫の実家は着実に片付いていった。ものを探し回る機会も減り、不安感もやわらいだのだろうか。「お二階さん」こと、二階のオンナ泥棒に、あれやこれやを盗まれたと不安がる機会も減ったのかもしれない。しかし、なくしものはゼロにはならない。

こうした状況を理解する上での折衷案が「“お二階さん”は引っ越したけれど、時々遊びに来る。そして、盗癖は治っていない」という設定だったのではないだろうか。義母はしたり顔で、お二階さんの職業や職場、家族構成などについて微に入り、細に入り教えてくれた。まったく知らない人がいたら、実在の人物に信じるに違いないほどのディテールの充実ぶりだった。

“お二階さん”が引っ越したと聞いたとき、最初に思い浮かべたのは、いよいよ、義母がもの盗られ妄想を卒業する日がやってきたのかということだった。義父はあくまでも、義母に同意する形で「2階にドロボウがいる」と訴えていた。つまり、義母の症状さえおさまれば、義父のもの盗られ妄想に類する訴えも落ち着くことが予想された。いよいよ、その日がやってくるのかと感慨深いものがあった。

そころが、その予想は大きく外れる。

たしかに、義母は「お二階さん」が引っ越したと繰り返し主張した。しかし、その後も、近所には住んでいるらしく、何かにつけて出入りしているのだという。「もう遊びに来てくれなくてもいいのに」と義母は言う。こちらとしても同感である。

そうこうしているうちに、想定外の珍客が新たに加わった。

「ご近所の小さいお子さんたちがね、遊びにいらしたの」

義母から初めてそう聞かされたときは、町内会の集まりかなにかで、子どもたちが各家庭を訪問して回ったのだろうと思っていた。しかし、義母の口ぶりでは数名の母親が自宅を訪れ、「家の中で遊ばせてほしい」と懇願したという。「断るのも門が立つでしょう……。OKするしかなかったのよ」と聞かされたが、そもそも、現実としてあったやりとりなのか、義母の想像力の産物なのかがよくわからない。

「お子さまたちは、男の子のほうが多かったかしら。みなさん、活発でとってもかわいらしいの」

そう言って目を細めていた義母だったが突然、顔をしかめると、「ただ、困ったことがあるの……」と言い始めた。

「小さなお子さんたちが遊びに来るのはいいんだけど……あの子たち、いろいろなものを持っていってしまうの」
「あらら、そうなんですか。どんなものを?」
「スプーンとか、フォークとか。とってもつまらないものよ。あとはなんだったかしらねえ」
「そうですか。スプーンとかフォークがないと、ケーキやプリンを食べるときに不便ですね。ちょっと引き出しを確認してもいいですか」
「ええ、構わないわよ。好きに確認してちょうだい」

義母の許しを得て、引き出しの中身を確認する。スープやフォークが入っていた場所には……これまで通り、入っているように見えた。

「スプーンやフォークありますね」
「あら、そう? 返しにきてくれたのかしら。ありがたいわ」
「間違えて持って行っちゃったのかもしれませんね」
「困った子たちねえ。ウフフ」

困ったと言いながらも、義母はうれしそうである。「お二階さん」の話をするときより、ずっと穏やかで朗らかだった。「小さな子がすることだからしかたがない」という心理がプラスに働いているのかもしれない。

さらに義母は、小さな子どもたちが「箸置き」が持って行ってしまったと言い始めた。

「お勤めをしていたときにね、同僚の先生が作ってくださったものなの。金魚の柄があって、とてもかわいらしくて。たしか、七宝焼きだとおっしゃっていたわ」

再度、食器棚の引き出しの中身をひととおり、確認してみたけれど、該当しそうなアイテムは見当たらない。

「どれぐらいの大きさですか」
「そうねえ……。箸置きぐらいの大きさね」
「……」

もしかしたら、とうの昔になくしてしまった箸置きの記憶が、ひょいっと現れたのかもしれない。これ以上深追いすると、こだわりが発動した結果、また「玄関の鍵を取り替えないとマズい」という話に恐れがあった。大至急、撤退!!!

「早く返しに来てくれるといいですね」
「ホントそうだわ。みんな、悪い子ではないんだけど」
「きっと間違えて持って行っちゃったんでしょうね」
「そう思いましょう」

義母の心から生まれたご近所トラブルに、小さいお子さんたちの存在。そして、姿を消したり、返してもらったりもするスプーンやフォーク、箸置きなど。目に見える世界と、目に見えない世界の境界線がだんだん曖昧になっていく。


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