見出し画像

チャーリー・チャップリンとジョーカー、2人は何を思って笑う

映画『ジョーカー』の中に散りばめられたチャップリンの要素について、綴ってみました。



チャーリー・チャップリンの名言にこういう言葉がある、「笑いとはすなわち、反抗精神である」

『ジョーカー』の主人公アーサー・フリックは、面白くもないのに感情が高まったり、緊張または悲しんだりする時に笑ってしまう精神病を抱えている。なので彼が劇中、かなり笑っちゃいけない場面で笑っちゃうシーンが何度かあるのだ。これは同時に、彼の笑いと人の笑いの“ズレ”を表している意味深さもある。余談ではあるが、人は何かと“笑ってはいけないからこそ笑ってしまう”時があると思う。日本にも、笑うとお尻を酷く叩かれるという年越し定番バラエティがあるくらいだ。もしもアーサーが「笑ってはいけない」にピン芸人として(彼は実際そうだ)出演したとしたら、彼のお尻は大破してしまうだろう。

しかし、そんな彼の発作的な笑いは気がつけば映画終盤で落ち着いている。それはもしかすると、彼が常日頃抱えてきた社会に、隣人に対する不満への反抗をやめた証拠なのかもしれない。彼はシステムに反抗するのではなく、破壊することにしたのだ。彼の笑いの発作が良くなる決定的なきっかけはない。それは、彼が“ジョーカー”になった決定的な瞬間がないのと同じ。本作は、一人の男が徐々にひとつまたひとつと何かを隣人や社会によって奪われ、それが男が崖から飛び降りるひと押しに、いとも容易くなることを描いている。

画像1

“I used to think my life was a tragedy. But now I realize, it’s a comedy.”
(ずっと自分の人生は悲劇だと思っていた。でも今わかったんだ、それが喜劇だったと)

本作でアーサーが放った印象深いこの台詞も、チャップリンの「人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ」と似たようなことを言っている。アーサーは雀の涙ほどの給料のため、ネガティブ思考しか持ち合わせていないのに常に笑い人々を楽しませるピエロとして働く。家に帰れば精神を病んだ母の介護。自分だって、脳の損傷のせいで病気を抱えている。街では何の理由もなくギャングに襲われて、蹴られる。そんな自分を支えてくれるような恋人もいない。映画が始まってすぐに紹介される彼の人生は、確かに悲劇だ。しかし、物語はさらにその悲劇度を増していく。

チャップリンの残した言葉と、アーサーの言葉は似ていれど意味合いはどうやら違いそうだ。チャップリンのものは、どちらかというと今辛いことがあっても人生という長い目で見たとき、笑い話にできるほど一瞬の、つまらないことだというポジティブな捉え方ができる。しかし、アーサーに関しては「人はここまでどん底の底を突き破って落ち続けることができるのか」という、あまりにも酷い事が起こりすぎてもう笑うしかない、そんな諦めや嘲笑の意が込められているように思える。それに、『ジョーカー』もある意味でコメディなのだ。

画像2

監督のトッド・フィリップスはこれまで「ハングオーバー!」シリーズを手がけてきた人物で、本作に抜擢された時意外に思った人も少なくないはず。しかし、彼は「ハングオーバー!」でやった事を同じように『ジョーカー』でやっているようにも思える。というのも、「ハングオーバー!」こそ3人の男の目も当てられない最悪の悲劇(本当に自分の身に起きたら正気でいられない)を描いた作品だ。しかし、観客という受取手がそれを笑い、コメディというジャンル作品に位置づけられた。あんな身の毛もよだつ恐ろしい話をコメディと捉えて、『ジョーカー』は違うというのは今の社会情勢を描いた背景を除けば、少し疑問に思う。

最後に、もう一つ劇中に登場したチャップリンのイースターエッグについて触れておきたい。それは彼を讃える映画上映イベントで映された『モダン・タイムズ』。アーサーが本当の笑みを、浮かべたくて浮かばせながら観ていたのが印象的だった。

画像4

「機械社会の中で個人が人間性を見出し、幸福を求める物語」という冒頭のテロップとともに始まる映画。
冒頭の羊の中に、一匹黒い羊がいる。それがチャップリン演じる主人公だ。映画が作られた当時は自由労働イデオロギーの全盛期とも言えるとき。市民はこれによって過酷な労働を強いられ、まるで人ではなく機械の方に働かされた。チャップリンはこれをコメディに昇華して、人間の回復を願って作ったのがこの作品と言われている。トッド・フィリップスも、言ってしまえばこのやり方をとったように思う。

主人公は工場で、ベルトコンベアで流れてくるパーツのネジを締める作業を淡々とこなしている。しかし生産性だけを重視する社長は、どんどん機械の出力を上げていく。

最大限に出力されたベルトコンベアに作業が追いつくわけもなく、主人公がそのままコンベアに乗って機械の中に入ってしまう有名なシーンがある。これは視覚通り、ついに男が歯車の中に組み込まれ、機械となってしまった人間性の破壊を描いた素晴らしいシーンだ。

画像5

歯車の中から救出された主人公だが、もうすでに彼は壊れてしまった。周りの人間を機械扱いしたり、奇怪な行動をとり続ける彼を「He’s crazy!(イカれている!)」と同僚は軽蔑する。そして、主人公はついに工場を、周りの環境を破壊し始める。工場は生産数を上げるために工場の人間に無理を押し付けたが、その結果が工場の破壊に繋がり、結果元も子もないという皮肉だ。

そして、病院送りになった彼は回復したものの精神破壊によって職を失った。まさに、ここでの機械はシステム=社会を意味する。それによって破壊され、人にイカレていると後ろ指さされ、最終的に機械や工場を破壊するという決断に至るというところが、まさに『ジョーカー』で取ったアーサーの行動のハイライトとも言えるのだ。ちなみに、アーサーが冒頭の看板を持って踊る様や小児病棟をはじめとするいくつかのダンスシーンで見せるステップは、このとき頭のネジが抜けた主人公のムーブを模していることが見てわかる。余談ではあるが彼のピエロの衣装は、『ジョーカー』のコスチュームデザイナーであるマーク・ブリッジズが、このときのチャップリンの衣装を意識して作った。

画像3

映画『ジョーカー』でも印象的に使われていた楽曲、「スマイル」はチャップリンが『モダンタイムズ』のために作曲したものである。映画の中では2度使用され、最初に使われたのが、運命的な出会いを果たした少女との幸せな家庭生活を“妄想”したときだった。『ジョーカー』でも、アーサーは心の拠り所にする女性と出会うが、その二人の関係においてもまた“妄想”がキーワードになってくる。

さて、「スマイル」がもう一度使用されるのは映画のラストシーン。追われる身となった少女と一緒に、放浪することを決意する彼は「諦めずに頑張ろう、なんとかなるさ!」と彼女を励ます立場になる。まさしく、先述のチャップリンが本作に込めた願い通りのラストだ。主人公はそのとき、笑顔になる。アーサーもといジョーカーが、群衆の中で立ち上がり、笑顔になった時のように。それは、どちらも社会から逸脱したと同時に、解放と自由を獲得した者の笑みなのだった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?