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アラビアンナイト珈琲店『芸能界の光と闇』(X版)3万字短編前半(短縮版)

■アラビアンナイト珈琲店 第一集<X版>


2度と、2度とくりかえさることがありませんように!感性豊かで繊細な人たちへ。祈りの書

今日は一人の俳優さんがお亡くなりになった命日です。自死を個人責任、個人の自由、そう考える方もいらっしゃると思いますし、何が正解か、そもそも正解があるのかも不確かです。
 ただ命を全うしてほしい、そんな気持ちから書きました(身の回りの不安定な問題で、4年越しになってしまいました><)。
わたしたちを楽しませてくれる芸の人は感受性豊かな方が多く、またご本人も自覚もないかもしれませんが、ひとつもふたつも抜きんでた人は完璧主義傾向の高い方々だと考えられます。芸の世界にも完璧などありませんが、追及する姿勢をもっているからこそ、わたしたちに姿を見せてくれ楽しませてくれたり生きることを楽しくするスパイスをくれるのでしょう。完ぺき主義は諸刃の剣、やさしい魂は良い方を私たちのために使い、もう一方をご自身に向ける><
芸の人に届きますように!

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■《アラビアンナイト珈琲店》

ここはアラビアンライト珈琲店。西の空が茜色に染める頃から、濃紺が空一面に広がり始める時のしじま、街角に忽然と姿を現す珈琲店。
 とっぷりと日も暮れた。夜空には白に黄、赤の星々が踊り、珈琲店は月光を浴びている。
🌾カンテラはオレンジ色に灯っている。
カラランコカラン。月光に照らされた扉を開ける音が響いた。客の訪れである。
「・・・。」
お客は決まって無口で扉を開く。それは当珈琲店に限ったことではない。一人客なら大抵誰でも店内の人気を想像したりしながら静かに店の敷居を通る。ましてや新客なら当然のこと。
 店の外観は由緒ある洋館といった趣で、扉はパリの街角にあるようなアンティーク調の木製である。濃茶の落ち着いた色調とオーソドックスではあるが、その形は異様なほど細長い。まるで茶室に入るあの小さなにじりぐちを縦にひきのばしたようである。必然大抵の大人は身を細めてやってくる。上背のあるすらりとした新客は少し前かがみのまま、肩をぶつけることもなくすっと敷居を超えた。髪はつやのある桎梏の黒。整った眉。きめの細かい肌は青白く、美しい顔には澄んだ目がのっているが思いつめたように沈んで見える。何か腑に落ちないものを抱えているのだろうか、いや、誰でも一つや二つ釈然としない塊を持て余しているものだ。
 青年は素早く店内を見回した。
「いらっしゃいませ。ようこそお越しくださいました。ご案内致しますわ。」
芽依はしっとりと出迎えた。アラビアンナイト珈琲店のメイドである。口角が緩やかに上がったアルカイックな微笑は安定して幸福感の高い人がそうであるように出会う人を祝福で包みこむような喜びを称えている。歳は20代の半ばを過ぎた頃に見えるが実際はもっと年齢を重ねているのかもしれない。黒と白を基調としたレースと膨らみの多いメイド服で、膝が隠れる丈のスカートは清楚である。腰もとで巻かれたエプロンの白い紐は、華奢だが女性らしい芽衣の身体の凹凸を際立たせていた。
 新客は心ここにあらずの様子ですっと長い足を前方にのばし、敷居を跨いだ。青年の手から離れた扉が滑らかに動いた。カラランコカラン。新客はハッとしたが、ドアベルの響きのためか、店の珈琲の香りのためなのかは分からない。
               ※
 新客は珈琲店内を一覧した。
「あちらでよろしいかしら」と芽依がにこやかに声をかけた。
青年はすっと会釈をした。一礼はごく軽いものだったが礼儀正しさが伝わるには十分だった。翔子は来店した男性に目をやり、
「あら、イケ男。美男、好青年。あっ」と、驚き息を飲んだ。
翔子、彼女はこの珈琲店の常連である。やってくる客を時を忘れて観察しては歯に物を着せずものを言う主婦だが奇妙なほど毒がない。小さな女の子を子育て中という話だ。顔立ちは一見してクールな印象を与えるが、髪型はふわりと空気感をもたせてあり毛先は緩い内巻である。白いブラウスに主張しすぎないアッシュピンクの揺れ感のあるプリーツシフォンスカートをはいている。彼女も口元に微笑が見られるが芽衣とは異なる印象を与えた。「疲労困憊の果てに行きついたユートピアにいるのよ」とは彼女が言ったせりふである。
 彼女は40代に入ったところであるそうだが、最近の子育てママがそうであるように彼女も十分に若々しく、かつ熟成した魅力が宿りつつある女性だ。
「・・・」
蒼白の新客は、イケメン、美男、好青年、との翔子の3拍子に対応するべくごくごく自然で歯にかんだ笑顔を見せた。好印象そのものであるが、目の奥の生気は今にも消えそうな蝋燭のともしびのようであったのをマスターは見逃さなかった。
「いらっしゃい。寒かったでしょう。おっと、7月に言うセリフではありませんかな。さぁ、温かい珈琲をお入れします。ゆっくり一息ついていってください。生きていると色々ありますからな」
マスターはまるで千年来の父のように迎えた。

<ナレーション>

 さて、ここでこの小説を始める前にこの物語を書くに至った背景について少しお話しさせていただければと思います。
 この小説はコロナ禍中の去る2020年7月、自死により地上を去り天界へと移動された有名な俳優さんがアラビアンナイト珈琲シリーズX版の新客X氏のモデルとなっております。
 しかし当作品は当俳優さんが死を選んだ理由を追及しようとするものでも、また世の中に飛び交うネガティブな憶測を広げたり新たに作り出す目的で書かれたものではありません。あくまでも、有り余る才能でわたしたちを楽しませてくれた(ファンの方のご意見参照。”時に勇気や元気をくれたり、ドキドキさせてくれたり”と)この俳優さんへの冥福の祈りであり、そして彼の残してくれた勇気や希望など力を与えてくれる言葉の共有の場です。また、ご本人のみぞ知る自死の理由からは切り放した状態で、広く現代における心の病、それから自死の特徴、そして中でも特に芸能人やアーティストの心の特性について考察したフィクションです。
 著名人の自死は少なからぬ影響を社会に及ぼします。わたしたちのより深い理解によりそのような悲しみが減りますように、また広く心が病みやすい人たちが生きやすくなりますように、芸の人やクリエイティブな方々が生き生きと創作活動ができますように、人生の底に迷い込んだとしても希望の光が見出せますように、そんな願いと安寧の祈りの物語集です。
 ご理解いただける心ある方の目にとまり幸いです。ナレーションにお付き合いいただきありがとうございました。それでは本編をお楽しみください。<ナレーション終>


「いらっしゃい。摩訶不思議アラビアンナイト珈琲店へようこそ。あぁ、これはコンタクトレンズではありませんよ。これは先天的なものです。リアルな世界では珍しいと思うかもしれませんが世界の中では結構いるんですよ」
新客の青年は、なるほど、了解しました、と真摯な眼差しを向け口元に微笑みを浮かべた。
 マスターは5万人に一人程の出現率と言われている虹彩異色症であり両目の色が異なる。「珈琲の香りでこうなったのですよ」とはマスターの説明であった。
「ほら、うちの猫と同じですよ。今日はあいにくどこかに遊びに行って店にはおりませんがな」
青年は席につくや腕を額の前で組み顔を覆い俯いた。
「きっとじきに戻ってきますわ。気紛れといったら、猫様の特権ですもの。あの子はそれでいつもちゃんと、戻ってきてくれるのですわ。猫様ですから」
ごくごく自然のていの芽衣に対し、翔子は唖然としていた。
「あ、あ、あのやっぱり・・X君、よね」

■《ジャスミンの薫り》


翔子はピンク色の薔薇模様の珈琲カップを宙に浮かせたまま、驚いた猫のように少し吊り上がった目を見開かせていた。新客は知名度の高い俳優X。ミーハーではない翔子だが一種の高揚を覚えていた。知性的で洗練されながら真っ直ぐで誠実な人間性が溢れる魅力を備えたXを目の前にしているのだから無理もない。
「いらっしゃいませ。こちらのメニューです。本日のコーヒーは、パナマ産ゲイシャと言って、ジャスミンの香りのする爽やかな逸品ですわ」
「それでお願いします」とXは顔をあげて言ってから、再び手のひらに顔を沈めた。
店内に珈琲の香りと静けさが広がり、マスターが禅の修行僧のように(とぎ済まされた茶人のように)珈琲を入れる音が響いた。
           ※
 余白の後、芽衣が香りけぶる珈琲を運んだ。上品なメイド服は老舗珈琲店さながらで、芽衣が一瞬で相手の隅々まで温かく包み込むような笑みを伴っていたのはいうまでもない。テーブルに丁寧に置かれたスズラン模様の珈琲カップからは爽やかな香がした。
 「ありがとうございます」
青年は息を大きく吸った。香りはXの脳の奥にひろがり目からこぼれるような恍惚を呼びおこした。生気を失っていた青年の目の奥に幾分か生命の火花が走った。
「どうですかな、目が覚めますかな。なんとも沈鬱な日はあるものです」
青年は真顔のままほほ笑むと花の香りの珈琲を口に運んだ。随分と精気が戻ったXだが、腑に落ちないなにか不可解な塊が鳩尾のあたりに詰まっているような表情に変わりはなかった。
「どうぞひと息おつきになって下さいな。Xさん。きっと気が楽になりますわ」芽衣の柔らかい口調はXを包んだ。
「そ、そうよ、そんな若いのに暗い顔していたらもったいないわよ。若い時は二度とこないんだから」
翔子は珈琲カップを未だ宙に浮かばせたままうわずった。いつもは大人の落ち着いた翔子の声が、キーが外れたリコーダーのように甲高い。

■永遠の38

 俳優としてのXを誰もが口をそろえて一流の人と言うだろう。普段ドラマは勿論、テレビもほとんどつけない翔子が認知したぐらいだ。数年前はその若々しい美しさで多くのファンをうならせ、「神々しいまでの美しさ」と、ファンを魅了した。そして今大人の魅力も加わったXがここにいる。
 「若さってそれだけで華なのじゃないかしら。まぁ、若さってものは失われて初めてその美しさに気が付くってものね。ねぇ、マスター」
「おやわたしですか?わたしは若いですよ。はちきれんばかりです」
マスターは力こぶを作る恰好をした。
「老いはまだやって来ないですな。一足早く老いなき世界の住人ですから。いつまでも気持ちは38歳です。38ですよ。ははは」
マスターの笑いは鷹揚であった。
「なんで38歳なの。18歳でも28歳でも33歳でもない。38。何かあるの?ロッテの39セットに対抗して38で勝ちに行った?あ『さ(3)ーは(8)じまる』の語呂合わせ?」
「ははは、いやね、分岐点がありましてね。男はそのあたりを境に保守保守保守、出る杭を打ち、新しきは異質と排除し進歩と退化、伝統尊重と躍進の区別もつかなくなる老害コースか、古きはもちろん若きにも習い新しきを取り入れ次世代のために土地を耕し華をさかせ、よき種を残そうとする尊っとい成熟に至ろうと志すか分かれ道なのですよ。生か死か、右か左か、そんな風にはっきり2分割なんてできはしませんが、わたしは実に成熟の道を着々と前進ですよ、ははは」
「うん、確かにそうね」と、すんなり同意を示した翔子は、ここでやっと宙で停止していたカップに気が付き思い出したようにテーブルに置いた。
「あれ、つっこみはないのですかな」
「それわたしのセリフね。珈琲カップといっしょに宙ぶらりん、浮ついてるんだから」
くすくすと笑ったのは芽衣だった。場は和んだが、Xはまだ朦朧としたまま静かに珈琲を味わっている。マスターと芽衣は新客Xを見守るような目線を注いでから話をつづけた。
「マスターはお気持ちが若いですわ」
「確かに若いわよね 。たまに無理してる感がないでもないけれどね」
「なな。確かに昨日トレーニング過多で本日筋肉痛ですな、限界がきてから一歩のところ3歩行きましたかな、トホホ」
なんのことはない、マスターの鍛えあげられた肉体は見事なもので、胸板のふくらみはベスト越しによく見える。
「まぁね、そういうところも素敵だし、結晶知性よろしく、年齢にふさわしい知見ものぞかせてる。男の顔は履歴書っていうでしょう。そこはいい感じよね」
「ははは」とマスターは鷹揚に笑ったが翔子は真面目な顔をした。
「さしずめ女の顔は創作。今時は男も女もあってないようなものかしらね。選択の時代よね。男性性女性性、どちらも人は備えているもの。
 ねぇ、お化粧、だなんて失礼だと思わない?化けるが入っているのよ。」翔子はすねたように芽衣をみた。
「うふふ。考えた事ありますわ。わたしは敢えて好意的に受け入れるようになりました。お化粧で千の顔を作り出せる、そう考えるのですわ」
「なる。わたしときたら化粧をすればするほどなんだか偽りを重ねるような気もちのなるのよ。素でいたいというか。何かと被ってたのかしらねぇ。そろそろしっかりとメイクしていい歳かもしれないわ。おっと、歳のせいは禁物ね」
芽衣はほほ笑んでいる。
「メークでご老人が元気になることもあるんだから、ルックスが人の心に与える影響は思う以上に大きいと思うの。だから美容産業も増毛産業も栄える」
「うふふ」
「視覚情報の影響力は大きい、きれいなものはきれい、そういうことよね。人は中身よ、とはいっても中身に外が伴えば無敵域なのは不文律ね。きれいなものはきれいよ。30代に入ったとき、京都の大原野神社に参拝に行ったの。しっとりとした場所にあるの。鹿の狛犬さんが鎮座してるのよ、でねそこで結婚フォトを撮影していたのよ。
 無垢の衣装の花嫁に、おしろいのお化粧に深紅のルージュ。紅葉もそのときばかりは背景となって主役を飾ってたわ。きれいだった」
「素敵ですわね」
「Xさんのはかま姿って素敵よね、きっと」
「うふふ。本当に」
「芽衣さんも花嫁衣装きっと素敵ね。モデルでおできになるわ」
「うふふ、ありがとうございます」
「お肌もきれいだしスタイル抜群!男性陣が聞いたらたるいとか何とかうざがられる会話かしらね?」
「何か言いました?」とカウンター越しのマスターは食器洗いの手を止めた。
「なんでもないですー。アラフォーのお肌事情は複雑よ、永遠のゼロ歳肌がいいわ」
Xは黙々と珈琲を飲んでいる。


いつ夜明けはくるんだろう
「そんな心配はわたしと夜露に預けて
何かしてもしなくても
ただ時を眺めやれば夜は明けるから」

それならどうして心の闇には夜明けが来ない?
いつまでたってもきやしない

待ちぼうける合間に僕は彷徨うよ黒い森
彷徨っていることなんて 
見ないようにしてきたさ
だって空は青いから
黒い森からも空が見える
彷徨いなんて 
ほら生きることの一部だからね

空が仰げればそれでいい

その日はきっと魔がさした
暗黒の闇に落ちた僕の隙をねらっていたのさ
夜な夜な現れて
沼へと続く道に僕をひっぱった
気が付けば真っ暗闇で
空もなければ
木々もなかった

君はあちらの道へ
花咲く道はあっちだよ
そこにも茨はあるけれど
開けた場所に君を運ぶ
そこでもやっぱり空は青いだろう

僕はここから立ち上がり 
歌おう 君に歌おう 
森に光がさすまで

■神妙な飲み物

 Xが華奢な作りのスズランの花形のカップを静かに飲む姿に翔子はみとれていた。
「きれいねぇ。ちゃらくない素敵男子発生率はそんな高くないと思うの。稀に見る逸材って騒がれてたのはわたしでも知ってる。そういうことね、納得。一見にしかず。これは、THE俳優さん。日本版アラン・ドロン。古いかしら?誰にも似てないわ、Xさんよ!まっすぐで透明度は摩周湖ね?あら湖よりも宮古島の空と海かしら。晴れの日の地中海!どれでもいいわね」
翔子は興奮しているが、Xは鮮やかな空色の細線で縁どられていた珈琲カップを口元に運びゆっくりと珈琲を飲んでいる。翔子の声が届いているのか聞こえていないのかわからない。
「はぁ。嘆息。あ、ごめんなさい。プライベートなんだから、まじまじ見られるの困るわよね。芸能の方も人なんだから。なんなら思わない?好き勝手人はいうわよね、芸能の人も心ある人なのにねって思ってきたけど目が離せていないわ」
翔子は目を覆うと、小花が咲いた優雅な形をしたカップを手にした。
「おやおや、アイリッシュ珈琲をお入れしたつもりはありませんよ」
「顔、赤い?よね、赤いよね。やだ、わたしったら、春が来たわ」
翔子は今度は頬を手で覆った。
「わたし確かに変わった見たい」
「何がですか?」
「年齢と聞いたらすぐにわたしは年だから、なんて答えてたのが、今じゃアラフォーは若い、随分と若い、これからよ、なんて言ってるのよ。セロトニン投与なしで言ってるの。これってマスターの洗脳技術かしらね」
「洗脳ですか?これはこれは」
マスターは食器をふきんで拭きながら渋みのある声を響かせた。
「あら言葉が悪いかしら?言葉選びでえらく違って聞こえるわよね。コーチングって言う方が合ってるかしら?コーチングだって一種の洗脳じゃない?ご本人をいい方向に向かわせるために洗脳技術を駆使しているんでしょう?社会的な更生だってこれも洗脳よ。洗剤も洗脳、調味料も洗脳、住宅ローンも洗脳」
「ふふふ。さしずめ宗教にはまった方は、脱洗脳という洗脳かしら」
と、芽依は首を傾げた。
「じゃ、作用とでもいおうかしら。人ってほら、出会ったらなにがしかの作用を受けるものだわ。ただ通りすがりの人でさえもわたしたちは何かの情報を得たり意識下で判断を下してる。
 チームを組む、友人の輪に入る、家族になる、上司になる、そんな身近な関係にでもなれば、作用は自然大きくなる」
翔子は人差し指を立てて続けた。
「シンプルに、幸せ度合いがますか減るかよ」
「そうですなぁ。影響をうけやすい受けにくいは人によって違うでしょうが、人と関わりを持てば充実度がますか否か、言い換えれば自己受容感がますか減るか、ですな。時が重なれば自己受容感がまるで富士山に登ったようになることもあれば、マリファナ海溝の奥で佇む、そんなこともあるのですから」
「生き甲斐に近づくか遠のくか、仕事で新しい道を開くか行き詰るか、貯金が増えるか減るか、持てる才がつぶれる方向に偏るか、伸ばし活かせる道に進むか、あらゆるところで環境の影響はありますわ。人は環境の生き物ですもの。どんな環境でも屈しない志を見つけ育てることは、ことさら大切ですし、人や環境のせいにしない、自主気鋭の精神を持つ、これは物事をうまくやり遂げるうえでとても大切なことと思いますけれど、それはあくまでも気持ちのありよう。環境の影響は多分にありますわ」
翔子は芽衣の語ることに神妙にうなずいた。芽衣は以前の職場で上司からモラルハラスメントを受けていたことを翔子に話した事があった。
           ※
「芽衣さんほどの人ならどこでも働けそう」
と翔子が芽衣の博識に慨嘆したとき芽衣はここにいる理由を伝えたのだ。
「ありがとうございます。マスターを手伝いたいのです。マスターが志すところと、わたくしのそれの方向性が同じですから。それに、ここにいた方が今のところ一番うまく人様のお役にたてると思いますの」
 ここにやって来た理由については多くは語らなかった。生真面目さや自らを問い詰める性格、周囲への過敏さがためにモラハラが深刻化し、右も左もなくなり気が付けばここで珈琲を飲んでいて、やがてここでマスターの手伝いをするようになった、翔子が知っているのはそれだけだった。
「わたし紅茶派でしたのよ。それなのに、うふふ、珈琲を飲んだんですの」
と目を輝かせて語ったのだった。「珈琲は神妙な飲み物で黒はあらゆる色を含む」、とは翔子の記憶に残っている言葉だった。
 芽衣はこの珈琲店の成り立ちを遠の昔に知っていたし、いつでも入り口とは別の扉に出口が用意されていたのだが、珈琲の香り漂うこの場にとどまることに決めていた。店内にはジャズピアノ(選曲中)の音楽が流れていた。
「人は出会うで人で変わるのですよ。よくも悪るくも。」
マスターのサックスのような音が響いた。
              

■外界への感度の高い人たち

 Xは珈琲の香を味わっては口に運んでいる。所作には品が備わっている。
「当たる人によってはとんでもない地獄を見ることだってあるのが人との出会い、それは納得だわ」
「擦り切れ摩耗して気が付けばぼろ布になってる、そんなこともありますわ。ぼろ布さんはお疲れ様ってお礼を言ってリサイクルして新生することが断捨離の基本ですわ」
「芽衣さんたら」
「人との出会いが陰と出るか陽と出るか、さいころをふったような偶然性ではなく必然ではないかと思いますな。出会ったときの心の状態といいますか、自己認識の精度によるといますか。
 似たような状況に置かれてもご本人の状態で随分と過程も結果も変わるものです。わたしたちはなるだけ環境やら人様やらに影響をうけないようなぶれない軸というものを築いていくものですし、『自己責任』の名の元、環境のせいにしない自立精神を尊ぶものです。事に当たるにはそうあるべきと私も同感を示しますが、元々生来的に影響を受けやすい人もいれば受けにくい人がおりますな」
「環境に影響を受けやすい人、それって、HSPってひとたちでしょう?多分、それわたし」
「あら、わたくしもですわ」
「敏感さん、とか弱ヨワ星人とかそんな印象があるからあまり声を大にして言えない感じよね。マイノリティだし非HSPの最適ストレス値に標準があわさった社会で、ただ生きるだけで既に高ストレスで息をきらす。まったく、余計に生きずらいわ。太古の頃は役に立ったこともあったのでしょうね、変化にいち早く築く、地震にも早く気付く、そんな外界へのセンサーの敏感さは家族や集団のサバイバルの役にたったのかもしれないわ。だけど、今は令和。文明社会で刺激過多で心身麻痺しがち。受難だわ」
「ブルーライトに目をそばめ、強すぎる紫外線でお肌はパンク、排気ガスに吐き気を催す。周囲の空気感へのアンテナは無意識に四六時中で、人といると神経高じてどっと疲れる。一人の時間が必須。それなのに、寂しさにも敏感とくる。上司からの過ぎたプレッシャーにノルマ、同僚の競争心や敵対心の設定は、非HSPさん方にとってもっともパフォーマンスをあげる強度。わたしたちにはアップアップですわ。ですけれど、マイノリティですから合わせに行くことが必要ですわね。何かと受難ですわ」
「本当に」
翔子と芽衣は互いに顔を見合わせてうなずいた。
「お二方、何をおっしゃる!才と表裏一体ですよ。HSPさんがたは、才の人ですよ」


『揺れに揺られてブランコだ
うごけば右に左に気分がわるい
じっとしていればとまるものの
僕たちは時々もがいて
絡まって
いよいよ揺れて
気分がすぐれない

あぁもういやだと逃げ出せば
宙を舞って地に落ちる』

■才能の光と蔭:クリエイティブな脳

「HSPさん方は感覚器官や扁桃体の過敏さが特徴なだけでなくミラーニューロンが多いのですよ。すると、学びには強くなる。
 共感力やら他者の動きを取り入れることにも優れていて、ダンサーならよく習い、俳優さんならよく役柄に入り込む。人の心の動きにも鋭敏ですからね、人に寄り添うこともできる」
「カウンセラーや医師が適職って聞いたことあるわ。精神科医は共感しすぎたら一緒に病みそうだけれどね」
「いっしょになって病んでいたら、病気はなおせませんわね。ですけれど、一度かかった病気で克服に至ったのでしたら、とても良いお医者さんになれるかもしれませんわね」
「他にもありますよ。アイデア創出ブレインですよ。刺激が脳内に入力すると人の同はどのような刺激に対してどう反応や判断をするのか、入力された刺激が起こした感情をタグにして記憶の検索がはじまるのですが、そのスピードと量が圧倒的に多いのです」
「脳内をスキャンしますと、HSPの人たちは脳内全体が活性化して記憶の検索にあたるのですわ。ほら、翔子さん、例えば”雨”と言ったら何を思うかしら?」
「雨、そうねぇ、
 雨と言ったら北八ヶ岳山麓北の苔の森、
本当にうっとりよ、ジブリの世界、なんて評されることもあるとおり、生き物のひそやあない気づかいが感じられる神々の領域よ。苔レディなのよ。仏像レディでもあるわ。あら、レディなんてつけてごめんあそばせ、今日はXさんと出会って心はガールよ。
 それに雨と言えば、裸足で長靴はいたことがあってね、そのときに限って靴の中になめくじがいたのよ、あー、こんなことはどうでもいいわね、雨雨、雨の言葉の豊かさって感動ね、日本に生まれてよかったって思うわ。慈雨の国よ。ね、雨がどうかした?とまらないわよ?」
「これがHSPですわ。ひとつの入力で過去の様々な雨にまつわることを思い起こすのですわ。翔子さんは雨を明るいものとして想起してくださった。明るい感情を呼び起こす雨の記憶が検索されたのですわ」
「あらそうね。梅雨時のアジサイの美しさとかね、もうそんな記憶があふれてたわ。」
「HSP的ですなぁ。一気に想起しますから、順序だてる必要はありますが、アイデア脳なのですよ」
「えぇ、ですから絵画や文芸のアーティストや芸人の方に多いですわね。発想力が生きるお仕事に向いているのですわ。ほら、クイズづくりで有名になった殿方もいらっしゃいますわ」
「それを早く知っていれば適職みつけやすかったのかもしれない。」
翔子は法律系の仕事をしていたが結婚退職した。曰く「逃げ婚」であったそうだ。仕事に生きがいを見出せなかったのだったが、そもそも生きがいを求めるという姿勢が強いのもHSP的であるといえる。
 「スポーツ選手でも多いですよ。テニスやら卓球やら反応性の高さと新しい状況の対処方法の検索が合わさって高いパフォーマンスを発揮していくのですよ。いやぁすばらしい」
「それって練習ありきよね。磨かないとどうしようもないわよね」
「ははは、確かに。闇もありますな。薔薇には棘がつきもの、なんていいますがどんな性質にも才能にも陰陽があるものですし、適用場所によるものですな。 

陰はときに陽と出て場面が変われば陰、そんなこともあります。
 普段は素晴らしいスポーツ選手が、大舞台でうまくいかないことがあるのは、HSP特有の扁桃体の敏感さですな。緊張が高まりやすく閾値を超えてしまっていつもと違う動きになるのですよ」
「そうなんだ。納得」
「まだネガ側面はありますな。最も覚えてほしいことでもありますよ。ネガティブな検索を脳がはじめると、とまりにくいのですよ。いわゆるネガティブループに陥りやすいのです。嫌なこと、嫌な人が頭から離れない、過去に起きたネガティブなことをぐるぐると考えるだけで、そこに光明をあて解釈を変えることがなかなかできないことがあるものです」
「ストレスに弱いってことよね。非HSPが平気で耐えられるストレスで身動きとれなくなるってことあるのよ。いいように言えば、だから環境を快適にしたり視界負担を減らすようなインテリアやむしろ快をよびおこす創作に向いていたりするってことよね。で、つまりは不快に弱い」
「えぇ、人間は元からネガティブに注力が行きやすいですが、HSPの人はネガ情報の脳内入力があるとネガティブなことを延々とと考えてしまうことが多いのです。すると扁桃体はますます肥大化して、ネガティブなことを考える癖大きくなるのです」
「それ、まさに少し前までのわたし。ここに来るまでのわたしだわ。わたし、扁桃体モスラーだったのよ。
 不安やら恐怖やらで過敏状態とネガティブループの穴に入り込んで沈んでたわ。ねぇ地獄ってね、人の世にあるっていうじゃない?それもいろんな種類の地獄がある。わたしはそのうちの一個にいたのよ。 
頭は使えば使うほど発達する。
肌はかけばかくほどかゆくなる。
扁桃体も不安やら恐怖の刺激でどんどん大きくなる。
神経とやらは一貫性は保ってても結果陰に出るか陽に出るかは対象でがらりと変わる。わたしは扁桃体モンスターになって、ストレスホルモン系がとまらないネガティブ沈鬱地獄で沈んでたわ」
「翔子さんたら」
「地獄を見るのも才能ですよ」
「マスター?」
「そ、そんな顔しないでください。真面目に言ってます。才能です。大抵の人はいやなことがあっても気をそらして別ごとで楽しくやるものなんですよ。もしくはあいつのせいだ、なんて外に出してすっきりしてしまうものです。自分を苦しめてまで考えないんです。それをずっと考える。少し形を変えれば立派な才能です。形は変える必要がありますよ。自己批判ではなくて分析改善と試行錯誤。たまには外部要因も考えてなんでも背負いこまない」
「あら、怪我の功名で自己成長ってものかしらね。怪我のまま消毒もつけずにさらに怪我を重ねてたわ」
「ははは、それをいやだといったって、生まれ持ったものですから受け入れるのがいい選択だと思いますよ。どんな性質にも光と蔭があるのですから、光っても時と場所によっては陰になり逆もしかり。
 アーティストタイプの人は、そんな脳タイプだって是非知っていてもらいたいものです。己を知ることが今ほど切実な時代はなかったんじゃないですかな」

名表現者のXは珈琲カップを皿においた(※)かちゃりと音がした。珈琲店の音がした。

『才はもろはの剣
幼き頃のやさしさは
あなたを慕う人にむけられて
あなたご自身に向かわなかったの?

まだ小さき頃にはじまる自制の知性は
ときに休む法をかきけすことへとつながりましょう
歓喜を知る身でありますから
必然 闇夜も深いのです
あなたの才はそこにあって
あなたに光と闇をみせるのです
そこからあなたはそっと離れて
眺めやる 
眺めやる』

■ありのままを受け入れてから始まるけど『ありのまま』ってなんですかという今更の問い

マスターは珈琲を入れ直す前にちょっと外に行ってくるといって店から出ていった。部屋は少し心許なくなり沈黙が続いた。

「ね、最近思うの。『己を知ること』、なんて昔っからの人のテーマだなんていうじゃない?アテネの信託だかなんだか知らないけど」口火をきったのは翔子だった。
「『己を知る』って何のためかって考えることがあるのよ。だって、きりがないじゃない?己って何って考える切口もきりがないわ。で、ほにゃららの学校行って何が好きで何がきらい、そんなことも己のことだろうし、もっと拡大して、地球の生命体だし、動物だし人間だし女性性優位でボディーも女性、遺伝タイプはビッグ5ぐらいは調べられて神経症傾向が高いことがわかった。かかりやすい遺伝病も幾らか知った。
 でね、ビッグバンではじめは一つだったなんて考えると、宇宙のことだって自分のことよ。マクロかミクロかさえもよくわからないしそもそも宇宙は未知だらけね。わかったようで何もわかっちゃいない。
 世の中もミクロの世界も一瞬間と同じ姿ではないでしょう?自分も刻一刻と変わって同じところにとどまることなんてない。だからきりがないんだけど、それでも『己を知れ』なわけよね。なんで?って思ったの。
 たしかにね、己をよりよく知れば会社でうまくやるとか、適職発見できる、とか実りあるパートナー選びができる、とか自分の取説知って機嫌よくいられるようにする、人間災害を防ぐ、とかね色々あると思うのよ。メリットだらけってわけ。
『わたしは何者か』そんな問いは問い方に問題があって、『何者でありたいか』って問うべきなのも大切だって、かねがねマスターが言うからまぁそれもそうね、って思うわ。
 それも『己を知る』だし未来の指針にもなるわけね。それでもなかなか己を知ることの有用性に納得がいかなかったの。」
翔子は一息おいてから続けた。
「それよりなにより、『ありのままを受け入れるため』じゃないかって思うようになったのよ。ほら、『ありのままで~』って世界的なはやりだったわね。今でもありのままでいいって歌でもネットでも本でもよく見聞きするわ。

 で、ありのままが何がいいかっていうと、今に存在してただあるだけの状態で幸せなことを実感することなんだろうし、それにはありのままで誰もが尊い存在よ、ってマスターが喜びそうな思想があるのだろうけどね、それって己を知らないと得られない境地だって思うようになったの。ありのままを受け入れようと思っていたって、自分とは違うのに自分をありのままの自分だって思って受け入れようとしたって、それは偽りを自分だと思うことでしょう?ありのままを受け入れることにはならない。ややこしいかしら?」
「なんとなくおっしゃることはわかりますわ」
「あのね、『ありのままでいい』『ありのままがいい』で、いったい全体『ありのままってなによ』ってところに疑問が出ているように思うの。わたしだけじゃなくってね、多くの人の胸の中に生まれてる疑問ね」
「うふふ。わたくしも思いましたわ。ありのままって何かしらって。細胞で構成されていて、遺伝子の発現によって生命体を維持してるってことかしら?人類をしていて、たまに陥穽に落ちてまた出て天を仰いで希望することがある、それでいいってことかしら。きっと。『いい部分もダメな部分もそのままでいいのよ、ジャッジいらないわ、目標がなくたって見失ったって、地獄にいたって天国にいたって日々平穏無事にありがたい気持ちを抱いて暮らしたって、ときどき夜な夜な星と月だけが語り相手の時間があったって、ありのままであなたは素晴らしいのよってとこかしら。ありのままって、ほんとうに何かしらね。あ、ごめんなさい、わたくしもここに来て以来よくお話しするようになりましたの」 

■知識の洪水の中から見つけるキーワード


「マスターが『ご自身を知ってください。知識の洪水の世の中で真っ先に何を知るべきかって己を知る方法を知ることですな』、なんて言ってるでしょう。勉強を教えるんじゃなくて勉強のやり方を教えましょう、そんな類のことを言うのよ。
 さてさて、自分のことなんてどうやって知ったらいいのかなんてわかる以前に自分のことよ、知っているわ、なんて思っていたの。でもそれはまやかしだった。
 ここでこうして珈琲飲んでる間にいろんな人がやってきては笑顔を残して去っていく。それで思ったのはわたしって無意識的に自分せめてばかりだった、とか、理不尽なことに怒り超えて悲しみ募らせていた、とか幼い頃母親が私の感情をきらっていたから感情に蓋をしていた、とかね、偽りの仮面を自分だと思ってきた、そんな無意識領域の気づきの連続だったわけ。それでね、ここでぼおっとしたり珈琲いただいたり、それからお客さんとよもや話・・・、は超えている話をしながら、無意識領域に巣くった悲しみの温床をそうじしていたみたいなの。
 今ね、何よりただいるだけでね、ほぉっと幸せな気持ちで満ち満ちることが多いのよ。ありきたりだし、不思議ね。ただ在るだけで幸せってものは、自分を知って12一重来た平安貴族もびっくりするほどのたくさんの仮面を一枚一枚外し本来の自分を見つけてゆるして認めていくことと並行しておこるものなのね」
「そこが人間的成長のひとつの敷居だと思ってますよ。そこからまた新たな始まりがあるのではないですかな」
「あ、マスター、おかえりなさい!どこ行ってたの?」
「莉奈ちゃんを捜しに行ってたのですよ。いましたよ、安心しました。なんのことはない、00と散歩していましたよ。じきに来ると思います」

「そう、莉奈ちゃん驚くわね、きっと」
翔子の口元は母のほほえみが浮かんだ。
「確かに思ったわ。これからやっと本当の人生が始まるって思ったわ。本当も嘘もなくて今までも人生だしこうして、人生そのものは幻。だけどね、これからが本番。不思議ね」
「不思議でもなんでもないですよ。珈琲の力で目覚めたのですよ。この魔法の珈琲の力は偉大なり!あなたの明晰性、悟性、知性、感性を覚醒しに絶妙のバランスを提供する、魔法の飲料がアラビアンナイトの珈琲です。珈琲新しくお入れしましょう」
Xは活気に驚いたような顔をしてから微笑むと、今度はさらに驚いた顔をしながら壁を見て瞬いていた。まだ何も聞こえてないようでもあり、聞こえてくる音の源を探すようでもあった。

『珈琲よ
ぬばたまの珈琲よ
われをめざめさせたまえ
われの中に我を知り
我が生きる道を知り
のぞむところにたどり着くための
明晰性をめざめさせたまえ』

マスターは首をまわし腕を回しそれから屈伸を始めた。正当派老舗珈琲店さながらの服装だが足元はスニーカーである。珈琲を入れる準備をはじめたのだ。まるで実験室のようなガラス用具が整然と並んでいる。
 芽依はもちろん、翔子もマスターの体操を見慣れていた。
「いつも言葉と思考の間に母を求めて三千里ぐらいの距離があったはず。あ、古い?それがこんなになんでも話してるのも不思議だわ」
翔子もつられて肩を回しながら言った。

「珈琲の力です。発話の手前に喉につかえていたものがなくなるのです。飲む人にとっての真実を語らずにはいられなくなるのですよ。世に真実は人の数だけあるところのご本人にとっての真実を語らずにはいられない」
「それ納得するわ。本当に楽なの。いつも相手にどう伝わるか、誤解があったらどうしようか、こういったほうがいいんじゃないか、って考え過ぎて、HSPの典型よろしくへろへろになっていたのに、今は話すのがすごく楽なの。 
 それに以前よりずっと私らしくあれるように思う。ありのままってものかしらね。珈琲かしら。マスターと芽衣さんの人柄な気がしないでもないけどね」

「両方です、といきたいところですな。珈琲とわれわれの人格、両方ですと、ははは。」
Ω\ζ°)チーン
「しかし嬉しいですな。翔子さんは、まぁなかなか腹を割って話さない人でしたから。まだ話きっていないことがあって翔子さんから出るのを待っているようですが、明るくなりましたね」
「でしょう?母は太陽、なんてあったわよね。子供が太陽、わたしはその光を受けて光る月だって思ってたわ。
 わるいわね、わたしは照らない月よ、灰色の夜に星のうしろで黒く隠れる月夜、なんて思ってたのはいつだったかしらね。今じゃそこそこ明るくて、そこのほおずき色のランプより明るいでしょう」
オレンジ色のランターンには和蠟燭の炎がゆったりと揺れている。
「この店にやってきた当初はまず語らない。リャドロの置き物のように下向き加減でだまったまま、たまに瞬きながら珈琲を飲み続けている。何か聞けば死んだような眼をしてこちらに口元だけの笑いを向ける。やっと口を開いたかと思えば、もう年よ、先などいらないしそんなものないわ、過去だって無に帰すのよ、未来は異空に吸い込まれて消えてしまえばいい、ただ消えたいとまぁ・・」
「消えたいっておもうとね、罪の意識もあるの。それでますます消えたくなる。思えばそれって命は尊いっておもっているからよね。捨てたものじゃないわ。消えたいって思ってからが生きる理由を見つけ出す始まりね」と翔子はさらりと言ってからXを見た。
「ね、仏像って心洗われるでしょう。あの穏やかな慈しみが自分の心にうつるんでしょうね、仏像はそれで本望だって喜んでいると思う。で、人にうっとりしちゃうのってこれって、セクハラかしら?」
「ははは。どうでしょうな。芸能の人にはそういう気持ちを人に呼び起こすことが人気というものになりますからな。
 何をどう受けとるか、自由といいますか、人間の第一の反応に罪がありましょうか。生まれ持ち、幼い頃に環境によってかたどられた第一の反応です。
 その反応に気づく目をもちどう対処するのか、その選択に責任と自由があるのでしょうな。
それにしてもいやぁ、嬉しいですなぁ、翔子さんは変わった。誰も彼も珈琲豆だって岩だって、刹那として同じ状態はありませんな、惑星は周り太陽は燃え素粒子の世界では右へ左へ上へ下へ、瞬間移動までする変化の連続なわけですから、翔子さんが変わったのは自然なことでしょう」
「翔子さんは良くお変わりになられたのですわ」
「ははは、そうです。良くなられた。一人が変われば、その周囲の10人が変わる。それでその周囲の100人も変わって行く。ははは。いいですなぁ。ははは」
マスターは眉と髭を動かしながら快活らしく笑った後、さりげなくXを見た。Xは黙々と珈琲を飲んでいたが、その頬に赤味がその目に凛とした生気が加わったのをマスターはしっかりと観察した。

■時間のない世界


「最近では自分は若いと思っている人は実際に細胞レベルで若いそうじゃないですか。楽観性は大切ですな。それに、脳の寿命は今のところ200歳とも言われているそうですし脳の神経細胞も増えるとか。一昔前は脳細胞は減り続ける、なんて言われていましたが、覆った。増えるんですよ」
「それね、言い訳ができなくなったわね。漫然と暮らしていれば、紫外線やら電磁波、時の経過、つまり老化にさらされた肌のように動かさない筋肉のように衰えゆく。一方運動に適切な食事の日常が伴えば、筋肉同様に頭蓋骨の脳は若々しくいられる・・。これってね、もう年だからが効かなくなるってことよ。やれ有酸素運動でミトコンドリアが活性化。それBDNFか、ABDNFGZあー、頭痛い。知って仏か知らぬが仏か」
翔子が机に顔を付けて臥した。
「翔子さんったら。うふふ」
芽衣は翔子の珈琲カップをカウンターに持って行った。
Xは?透った眼差しには知性と理性が数段目覚めてみえる。
          
「そもそも時間なんてものもなくわれわれも無だというじゃないですか。それを物理の博士さんがたが証明しなすった。ね、芽依さん。」
息が弾むマスターに芽依はほほ笑んだ。
「まるで禅の世界です。色即是空。感覚だけではない、そもそも宇宙が無。だからといって、目の前のサイフォンもビーカーも指をならせば消えるってことはありませんし、お客さんがやってきては出発される、宇宙には阿と吽がある。始まりがあって、終わりでワンセットですなぁ。幻とはとうてい思えません。遺伝子が見せる色、感触、視覚、もろもろの感覚は幻であっても消えることもない」
「願っても消えないわよぉ。しょせん囚われてて、囚われも幻想だっていったって、とらわれてるのよ」
「ははは。手を動かせる、屈伸ができる、呼吸ができる、自由なところに目をむけるしかないですかな。
阿吽の間に生きるわたしたち人間にとっては、確かに過去があり今がありそして未来もあるように感じられる。苦楽もしかり。どんなものも永続しないし、そもそも永遠なぞないというのだけれどもそれと気が付かないうちは、変えられる遺伝と変えられない遺伝から作られた体と自分で作った箱の中でもがく。妙な生き物ですな、われわれは。一体われわれはなんなんでしょうな。」
「あなた方は、アラビアンナイトナイト珈琲店のマスター、芽依さん、それから翔子さん。それで僕って、一体だれですか。」
徐にXが顔をあげた。
場がすんと静まった。
(第一幕)

■なんて僕は僕

「なんて、僕は僕ですね」と、Xは笑った。
「ははは。」マスターの顔から感慨がこぼれていた。X氏から口を聞いてくれた!
「なんだか寝ぼけていたようなんです。ここに辿り着いた迄の記憶がまるでないんです。僕やらかしましたか」
マスターと芽衣は一瞬目を凍らせたし目が潤んだ。
「わたしは、ですな、少し前にコップやらかしましたよwははは」マスターの声は濁った。
「珈琲、おいしいです。ご馳走様です。珈琲のお陰で目が覚めました」
「それは嬉しい!」マスターはXが微笑むのを見て喜んだ。
「それに面白いですね、みなさん、楽しそうで」
Xは笑顔であったが俳優としての笑顔なのか否かは明瞭ではない。が、周囲を明るくし珈琲店に居合わせる人の心がほっとするものであった。
 突然翔子が身を乗り出した。
「早い!すごく早いわね!!わたしね、ここに来てから随分経つの。その間お客さんが出たり入ったりよ。
 なんだかぐったりと疲れきった亡霊のように人がやってきては、顔を輝かせたら、感謝の涙を流したり、慈しみと許しの神様みたいに微笑んだり、してね、シャンと立ち上がって『翔子さんもどうかお元気で』なんて言って去っていくの。
 ここにいると季節感覚も時間間隔もなくなるんだけどね、たしか春のあたりかしらね、けっこう頻繁に人が来たのよ、でね、Xさんほど早く口を聞いた方は誰1人いなかったわ」
「そうですか?僕は質問されたらやっと話すほうですから、確かにあまり進んで話すほうではないです。やっぱり珈琲の力ですかね」
Xは珈琲カップを持ち上げながら幾分か青白さの残る笑みをマスターに向けた。
「おやおやおや、これはうれしい。そう来ましたか。さぁもう一杯お淹れしましょう。Xさん特有の明晰さと知性がいよいよ耀きます」
「ありがとうございます。どうも、ご挨拶が遅れました。Xと申します。俳優業をさせていただいてます」
Xから謙虚と誠実という2つの徳がにじみ出た。
「あ、はい。あの。はい。あの、はい。随分と素敵でいらっしゃいますね」
「翔子さんったら。」と、芽依は笑ってからXに向き直り丁寧にお辞儀をした。「わたくし、猫沢芽衣と申します。ここでメイドさせていただいております。メイドの芽衣です。」
「よろしくお願いします。」
Xは笑顔で軽く会釈をした。
「僕いつ頃ここに入ってきましたか?オレンジ色の灯りに誘われて・・・よく覚えていないんです。なんだかぼーっとしていまして。珈琲のおかげでやっと目が覚めたのですが、よくおぼえていなくて」
「いいではありませんか。思い出す事が必要ならば思い出す事もあるものですし、覚えようとしても忘れる。いやぁ学生時代を思い出しますな。ははは。それに幼い頃の記憶なんざ覚えていることすら知らない。」
「幼いころの記憶もあるのでしょうか」
「おぼえているらしいですよ。言葉や物語として記憶されているわけではないですが、統計記憶というそうですな、しっかりと脳内の保存されているそうです。
まぁ人間の記憶なんてあてにならないものですな。ははは。いいようになんでも記憶できれば脳内お花畑でかもしれませんが生きやすいんじゃないですかな。ははは」
「珈琲の可能性を語るマスターはときどき脳内お花畑よ」
「うふふ、たしかにそうですわ。珈琲が未来を変える。珈琲がわたしたちに明晰性を与える、とかなんとか」
「ははは、まぁそれはわからないじゃないですか。
よくわからに物事をわからないまま保持しておく能力ってものもあるらしいですな。最近学んだのですよ。ネガティブケイパビリティーとかで。人間はわからにことをそのままにしておくのは不安だからっていうので、勝手に都合のよいように話を作ることがあるそうですな。人は基本わからないことは不安に思う生き物ですから、なんでも大抵白黒付けてすっきりしたがりますし、他人についても自分についてもわかったような気でいるものですな。しかし、わからないものをわからない状態のまま保つ人たちもいましてね、その力とやらがシェイクスピアには備わっていたそうで、それが創造力につながったらしいのですよ。」
「なるほど・・」
Xは相槌を打ちながらもたった今のこと、それから遠い記憶を思い出そうとしているようだった。

後半に続く

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