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人格と記憶

 人がその人たらしめるものは人格と記憶のふたつから構成されているんじゃないかと考えていたときがある。

 人間が人間について理解しようとするとき、見るときは既にすべてが残像で、結果的には常に過去を見ていることになっていると思う。その人のなにかを観測し、捉えたときにはその人はまた新たに生まれている。生まれ続けている。だから、記憶の中の人というのは全員幽霊だし、なにかをつくったり表現したりした爪痕も、それを観るときにはもうぜんぶわたしの幽霊でしかないのだと思う。でも、その一瞬の幽霊が、誰かのこころや、キャンバスやネット上に残り続けているというなら、それが永遠というものになるのかな、とも思う。この先、わたしの作品が燃えたり、データが消えたりしても、わたしの作品を観た人がすこしでも影響されていて、その影響された要素を含んだなにかが生まれて、それがまた何かに影響されていく、それがずっと続いてゆくだけなら、変わってゆくことや失われてゆくものに、縋り付いて固執しなくても、いいかもしれない。

 前まで、時の流れは水のようなもので、今のわたしは過去のわたしから一直線上で変化した別の人間だと考えていた。だけど、あるとき自分というのはミルフィーユのように層が重なってできていくものなんだと気づいて、その瞬間から前まではぐちゃぐちゃな自分としか思っていなかったこれまでの言動を読み返したときに、この言葉はだいたい何歳くらいのときのわたしだ、というのがわかるようになった。


これは小学5〜6年生のときに生まれた、オレ口調のあいか

これは中学生くらいの、部活で協調性みたいなのを学んだあとのわたし

大人あいか

5歳児

 ツイートはもう消しちゃったけど、社会への怒りがおさまらず、資本主義しねーって暴れてたとき、最後の最後で、もうあいかちゃん!そんな言葉使っちゃダメでしょ!ありがとうって言おうね!って言っていたことがあった。同じツイート内に二人の人格がいたんだな、嗜めてたのは親代わりの大人あいかだったんだろうなと今は思う…。

 なんというか、こどもって自分中心に世界が回ってると本気で思っているから他人に対する接し方がすごく理不尽で雑だし、自分の喜び、痛みや機嫌が全て、他人の都合とか知らねー!という感じなので、納得できないことが起きたら(歩いてたら転んだ、など)なんでも親や外の世界のせいにするし、周りの目を気にせずに暴れたり泣き喚いたりするから、世渡りするときに自分の中にこどもがいると、すごく負担が大きくて扱いが難しいのだと思う。だから、余裕がなくなったとき、自分のなかのこどもを、どこかで置いてけぼりにしちゃう人も、残念ながらいると思う。でも、面倒な一方で、世界で出会ったものに純粋に悲しんだり楽しんだりする揺り動かされる心をもつのも、こどもなのだ。周りの感情の動きを機敏に感じ取って、立ち回るのはおとなのこころの役割。だから親になったとき、周りの声がいつも以上に気になるんだと思う。

 頑固で我を譲らない、周りの気持ちには全然気づかないずっとこどもみたいな人はいるけど、周りが子守するような大変さを被るだけで、本人は別に苦しくない。逆に、周りの気持ちに敏感になっても、そういうものだと割り切って上手く立ち回れるならそれもそれで苦労はしない。なにが苦しいって、こころのなかではぜんぶ自分の思い通りになってほしい、ならなきゃ不満と思ってるのに、自分を優先したいという気持ちだけを貫いたらどんなふうに周りから見えるかとか、今自分はどんな評価を受けているか、ということに中途半端な賢さのせいで気づいてしまったせいで、どちらにも振り切れないし、両立することもできないこと。

 モラトリアムというのは、自分のなかにおとなの人格を取り込む期間で、わたしの主導権奪わないで!邪魔しないで!大人なんかいつもわたしの言うこと聞いてくれなかったじゃん!大嫌い!なりたくない!っていうこどもごころと、他人を疑ったり、我慢したり、何かから逃げる策略を立てることは綺麗ではないかもしれないけど、ぜんぶ必要なことだと受け入れたわたしがいないと、君はこれからずっと生きづらいままなんだよ、という形成しかけてるおとなごころの自分の喧嘩で苦しかったんだと思う。こどもの自分の面倒を見るおとなの自分がいないと、時間が経つにつれ、現実世界でそれまで面倒を見てくれていた"大人"からの自立を迫られてしまって、その先、無償の愛で自分を見守る存在はどこにもいなくなってしまう。結婚したら家族みたいになって好きじゃなくなった、みたいな気持ちは、無意識にでも、親の役割を結婚相手に求めてしまっていて、相手もそれに応じるうちに、それはいつしか個性をもった○○さん、じゃなくて、理想の母親像を投影しただけの人形になってしまうからで、愛が冷めるのは、その虚像を見つめてるうち、お互いにとってその人がその人である必要がなくなっていくから。

 だから、おとなに対していやな感情をもっていると、自分のこどもごころがおとなの人格をインストールすることを拒んで、こころにはこどもしかいないまま、見た目と数字だけ成長して行く。 
 成長するにつれて、社会の許容度もどんどんなくなって、こうあるべきというのを示されたときにそれを跳ね返す力も、こころにこどもしかいない人にはない。簡単に潰されてしまうのだ。
 これまでの人生で出会った許せないおとなを、許せないままだと、生きるのがずっと苦しい。大人になれない、は過去に会った大人へのトラウマだと思う。

 わたしは今、過去に出会った、どうしても許せなかった大人たちを許せている。人間のお手本、という役割を求めて見ていた彼らを、人生を謳歌したり、時に苦しみもがいたりする、ただ、ひとりの頼りない人間として見ることができるようになった。もちろん、許そうと思って許せるようになるものではないけれど。

 今もわたしは相変わらず、人生めんどくせ〜なとしょっちゅうサボりたくなるし、ガキあいかが暴走して叫びがちだけど、鬱々とした気持ちがあっても、前のような重い感じはなくて、今は自分のなかに大人の自分がこどもの自分の手を繋いで歩いてる感じがして、安心感がある。

 前に、年齢不詳になりたいと呟いたときに、性別不詳にもなりたいです、と返事をくださった方がいて同感したのだけど、その言葉の意味を突き詰めると、人間の要素をぜんぶ持ち併せて、どの属性にも伴う気持ち悪さも、美しさも全部受け入れた上で、人間が存在することそのものを許したいということなのかなと思う。

 親という役割やこどもという役割があるんじゃなくてわたしたちは全員親で全員こどもで、それはジェンダーで言い換えるなら男性性と女性性も同じで、自分のなかで相反する人格同士に手を繋がせてあげる、ということが自分が唯一受けられる無償の愛、アガペーなんじゃないかと思ったりもした。

 わたしは、成人したとき、やっと、天使も悪魔も飼い慣らす覚悟ができたのかもしれない。わたしの中では、きっと、天使も悪魔も手を繋いでいる。

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