嘘吐きは誰だ
ナラティブ・アプローチには「現実はひとつではない(語られた数だけ存在する)」という現実観がある。ひとつひとつの事実というのは、それぞれにとっての「現実」を構成する材料でしかなく、人は自分が作った筋書きに合わせて事実を組み合わせ、それを現実と認識しているだけなのだ。
昨日、ネットの片隅で、本当に取るに足りないような、だけどそれなりにショックな出来事があった。
私はnoteを始める以前、発達障害の情報を集めたポータルサイトの会員アカウントで、個人的な日記を書いていた。小さなコミュニティの中で、大してフォロワーもいないアカウントだったのだけれど、しばらく独り言のように日記を書き続けていると、そのうち、一人のユーザ―が熱心にコメントをくれるようになった。
その人のコメントは、毎回千文字や二千文字を軽く超えるような長文だった。同じように発達障害を抱え、社会にうまくなじめない者同士、琴線に触れるものがあったんだろう。私が一か月ほどそのサイトにログインしていなかった時には、昔の日記を遡って読み、コメントを付けていたようで、毎日のように彼女からの通知があった。それが嬉しいときもあったが、どんな人間関係でもそうであるように、負担に感じるときもそれなりにあった。
しかし最近はそのサイト自体にまったくログインしなくなり、気付くと半年以上経っていた。忙しかったとか、noteの方が楽だったとか、色々理由はあるのだけれど、再びログインするようになったのは、ここ数日くらいのことだ。
最近の世界情勢のことなんかもあって、以前交流のあった人たちがどんなふうに過ごしているかが気になったのだ。大体みんな変わりなく過ごしていて、少し安心した。
しかし昨日、更新順に並んでいる日記の一覧を見ていると、その中に、しばしばコメントをくれたあの人のアカウントがあった。
リンクを開いてみると、そこに書かれていたのは他でもない、私の話だった。まさか私が今も見ているとは思わずに書いたのだろう。
実を言うと、ログインしなくなる少し前、その人との間には小さなトラブルがあった。
ある日、私がいつものようにとりとめのない日記を書くと、その人はいつものように長いコメントを付けてきた。しかし、その内容はいつにも増してセンシティブで、返事をするにはだいぶ言葉を選ぶ必要があった。
それで私は「返信は少し待って下さい」と返事をした。するとデリケートな彼女は、迷惑をかけてごめんなさい、自己満足のために書いただけなので返事はいりません、とやにわに謝罪し始め、コメントをごっそり消してしまった。
どうやら私を不快にさせたと受け取ってしまったらしい。
実際はそういうわけではなかったのだけれど、それについてまた「怒ってませんよ」などとフォローしているうちに、私はだんだん彼女の感情の起伏や、極端な行動に振り回されることに疲れてきた。
そしてつい、本音を言ってしまった。
コメントの内容が不快だったわけではありませんが、私もコメントを受け取ってから、私なりにあなたとちゃんと向き合おうとしていたわけですから、いきなりコメントを消すというあなたの対応に少しいら立ったのは確かです、と。
相手からの返事はあったのかなかったのか忘れてしまったが、ともかく、それで話は終わった。
私が昨日見た日記に書かれていたのは、その時の一件のことだった。
しかし、その内容は私の記憶とはだいぶ食い違っていた。
『フォロワーさんの日記にコメントをしたら「時間を下さい」と言われたので、私は困らせたかと思って気を遣ってコメントを消したんですが、相手は「時間をくれと言っているのになぜ待てないのか」と怒り出して、「前々から思っていたが、あなたと私は違う。あなたに何がわかるんですか」「正直むかついた」と暴言を吐いてきました。どうして私があんなに怒られなきゃいけなかったんだろう……。すごく怖かった』
どうも彼女の中では、私が彼女に対して理不尽にキレたということになっているらしい。
面白いのは、彼女が私の発言として挙げているいくつかの言葉は、大きく文脈やニュアンスが異なってはいるものの、まったくの出まかせというわけではないことだ。
なぜ待てないのかと私が怒り出したというのは、「私なりに向き合おうと云々」辺りの言葉を曲解したんだろうし、あまり感情移入されすぎるのは困るとオブラートに包んで伝えるために「あなたと私は違う人間なのですよね」とも私は確かに書いた。
「正直むかついた」は、おそらく「いら立ったのは確かです」を脚色した言葉だろうか。
こうして見ると、ナラティブにおいて「事実は現実を構成する材料でしかない」ということがよくわかる。
言葉はただの言葉にすぎない。しかし、「語り」の中で意味を付けられることによって、別の効力を持ってしまうのだ。
おそらく彼女には「拒絶されて傷ついた」という感情と、それを認めたくない無意識があって、それらの辻褄を合わせるために『無害な自分に対して、相手が理不尽に怒っている』というプロットを立て、記憶の中の私の言葉を素材として脚色したり、歪曲したりしながら、都合の良い「語り」を組み立てたのだろう。
それは「嘘」とは少し違う。
彼女にとっては、それが主観的現実に他ならないのだ。
彼女だけでなく、すべての人にとって、物理的な意味でも、心理的な意味でも「見えていないもの」はある。それらは見えていない限り「存在しないもの」と同じで、私たちはそうして限られた材料で自分なりの現実を構成している。
そこにはさまざまなバイアスがかかっていて、誰も自分の善良さと無害さを疑わない。
そんなわけで、私は結果的に彼女の語りの中で『コメントを消されていきなり怒り出した心の狭い女』になっていたのだった。
人にとっての現実なんてものは、かくもあやふやで、独りよがりなのだ。
────というように、私はこの一件を理解することにした。いくらなんでも、その人が悪意を持って私の人格を捻じ曲げるようなことをわざわざ書いたとは思いたくないから。
ポータルサイトのアカウントは消した。
私は変わらず一人だった。
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