天国の話をしよう―映画『Matterhorn』
「キリスト者は、平安の保証によるよりも、むしろ多くの苦しみによって天国に入ることを信じなければならない」
今から505年前の1517年、マルティン・ルターは贖宥状(免罪符)を販売するローマカトリック教会に対して95ヶ条に及ぶ批判を書き連ね、最後の1ヶ条をこう締めくくった。
ルターは、そもそも従来の教会が言うような「生きている間に善行を積んだ人間が救われる」と言う話さえありえないのだと説く。
元来、人間は神に与えられた戒めを犯さずに生きることはできない、愚かで無力な存在だ。その愚かさ、弱さゆえに、人が自らの意思で行うことは、ことごとく罪をともなう。
何をしても罪深い行いにしかならないのだから、表面的な行動より内面的な信仰を重視すべきだと言うのが、ルターの主張だった。
ルターに端を発した宗教改革はその後ヨーロッパ各地に影響を与え、ローマカトリックとプロテスタント勢力の宗教対立は深刻化して行った。
16世紀末に差しかかる頃には、ハンガリーでもハプスブルク家とローマカトリック教会によるプロテスタント弾圧が始まった。そんな中、あるルター派の信徒一家が、信仰を守るためにドイツへと移住して来る。
一家の大黒柱は、パン焼き職人のファイト・バッハ。
それから数度の代替わりを経たバッハ家は、ドイツの大作曲家であり名演奏家、ヨハン・セバスティアン・バッハを輩出することとなる。
服を着た勤勉と呼ばれるほどの真面目な性格で、前妻との間に7人、後妻との間に13人の子に恵まれ、多くの名作を後世に残した偉大な人物、バッハは、こんな言葉を残している。
「演奏は難しくない。正しい時に正しい鍵盤を叩けばいい」
2013年のオランダ映画『Matterhorn(邦題:孤独のススメ)』のオープニングにも、この言葉が使われていた。
何年か前に見てからずっと印象に残り続けている映画だった。今日は他に書くこともないので、この映画に関して感じたこと、考えたことを自分なりにまとめてみようと思う。
この映画は、天国についての寓話だ。
主人公のフレッド(トン・カス)は、妻を失ってから独り暮らしをしている老人だ。彼は保守的なキリスト教徒で、贅沢を好まず、毎日の食事は質素に、オーディオや家具も同じものを何十年も使い続けている。低俗なものも嫌いで、音楽はバッハしか聞かない。妻亡き後も、ずっとそうして淡々と暮らしていた。
唯一の楽しみは、マタイ受難曲のアリア(第39曲 『憐れみたまえ、わが神よ』)のカセットテープを聴くことだけだった。
『マタイ受難曲』とは、新約聖書の『マタイによる福音書』を題材に、バッハが作曲した受難曲(※キリストの受難の物語を描いた楽曲)で、バッハの作品の中でも最高傑作との呼び声が高い。一方で、バッハは『ヨハネによる福音書』を題材にした『ヨハネ受難曲』も残している。
では、この映画に使われたのがなぜ『マタイ』の方だったのか。
新約聖書には、福音書と題された書物が四つ収められている。どれもイエスの言行をイエスの直弟子や孫弟子が記したもので、マタイ、ヨハネ、マルコ、ルカの四人が書き手として伝えられている。
そのうちマタイが記したのが『マタイによる福音書』で、他の福音書と比べるといくつか特色がある。一つは、福音書がまずイエスの系図から始まっていること。これはイエス・キリストがダビデ王の正当な後継者であり、救世主であることを示すためだと言われている。
そしてもう一つは、「天の国」と言う言葉が、四つの福音書の中でもっとも頻出するということ。天の国とはすなわち、天国のことだ。
天国とはどのようなところか、どのような人々がたどり着くのかということが、『マタイによる福音書』では繰り返し語られている。
映画冒頭、教会での礼拝のシーンで引用されているのも、やはりマタイからで、天国についての話だ。25章31節からのその部分では、最後の審判の後にどのような人が天国に入るかを次のように説いている。
要約すると「選ばれるのは、イエス・キリストの兄弟(弟子)のうちでも取るに足りないような者が苦しんでいる時、親切にしてくれた人たちである。彼らを助けたのはイエス・キリストを助けたのと同じなのだ」と言う説話。
イエス・キリストは復活した後に天に昇ったため、現世には存在しないが、この『最も小さい者』、取るに足りないような、貧しく、無力な者の姿を取って、人々のそばにいる。
それを見逃してはならないという教えだ。
その教えを暗示するような出来事が、物語の中でも起こる。
フレッドは、ある日庭先に迷い込んだ浮浪者のテオ(Theo:ギリシア語で「神」に由来する男性名)を見つける。そして彼を家に入れてやり、食事をさせ、シャワーを貸し、教会へ連れて行ってやり、暮らしをともにするようになる。
まさに「小さい者に親切にする」という行いだ。
だけれど、堅物のフレッドは、テオに心を開いてそうしたわけではなかった。
彼は、真面目に働かず、子供のように放埒なテオをありのまま受け入れるのではなく、つい「教育」しようとしてしまう。
福音書によれば、テオのような者こそありのままに受け入れなければ、天の国には入れない。それはつまり、罪をあがなうことができないと言うことだ。
フレッドがあがなわなければならなかった罪とは何か。それは過去、テオにしたのと同じように、自分の息子のありのままの生き方を否定し、思い通りに支配しようとしたことだった。フレッドの息子のヨハンは、ゲイだったのだ。
キリスト教徒の中でも特に保守的な教会に属し、田舎町の排他的なコミュニティで生きてきたフレッドにとっては、自分の子どもが同性愛者であることなど、受け入れがたいことだった。そうして彼は息子を家から追い出し、そののちに妻を事故で失って、たった一人になってしまったのだった。
だけれど、彼は息子を愛していないわけではなかった。フレッドが毎日聴いているアリアは、実はヨハンが小さな頃に教会で歌ったのを録音したものだ。
この曲で歌われているのは、イエスの処刑の日、事前にイエスによって予言された通りに離反した弟子ペトロが後悔のあまり泣き崩れたのを受けて、過ちを犯してしまう人間の弱さ、愚かさを信徒が悔い改めているところだ。
ルターも言うように、人間は根元的に弱く、不誠実な存在だ。
どんなに自分を善良だと思っていても、保身のために人を傷つけてしまったり、それを正当化しようとしたりする。それは個人の問題ではなく、もともと人間全般がそういう弱さを抱えているのだ。
キリスト教的に言えば、アダムの罪によって人が肉体の死に囚われるようになった時から、人々は恐怖や不安、世俗的な欲に支配されるようになって、そのために神に近づく行いから離れてしまう。
イエスを裏切ったペトロや、息子を愛しながら、愛していると言えずに追い出してしまったフレッドがそうだったように。
「正しい時に正しい鍵盤を叩きさえすればいい」
映画を見てから再び考えてみると、このバッハの言葉は逆説的にも聞こえる。フレッドは生涯ずっと敬虔なキリスト教徒として、正しいことを正しい時に行い、間違ったことは何もせずに来た。それが「天国へ近付く生き方」であると思い込んで来たからだ。しかし、オープニングで彼が一人ぼっちでバスに揺られる姿は、あまりにも寂しい。
そんな人生に、救いの機会が訪れた。それがテオだった。テオはとある理由からまともな社会生活が送れない状態になっており、食事を食べさせれば手づかみだし、スーパーマーケットに連れて行けば、人前で四つん這いになって羊の真似をしたりする。
フレッドの隣近所に住むキリスト教徒たちは、テオを教会へ連れてきたフレッドに対して良い顔をせず、拒絶感をあらわにする。
私たちだって多分同じだろう。ホームレス、声を上げられない子供、困窮している人、苦しんでいる人々、あらゆる障害を抱えている人たち、マイノリティに優しくするのが正しいことだと言いながら、現実は嫌悪の目を向け、面倒だと見ないフリをし、無視している。
目先の損得ばかり考えてしまう私たちにとって、寄り添うことはあまりにも難しい。
だけれど、きっと、自分を救うきっかけはそういうところにあるのだ。
フレッドはテオとの関わりの中で自分のしてきたことを悟り、息子に許しを乞いに行く。そしてゲイ専用のクラブで歌手としてのびのびと歌う息子に、彼は喝采を送るのだった。
そして彼は、亡き妻との一番幸せだった頃の想い出の地、マッターホルンの風景を心に感じる。その場所こそ、彼にとっての天国だった。
苦しみ、後悔し、孤独に過ごした日々がなければ、フレッドがその機会を掴むこともなかっただろう。苦しむことが天国への道だと言うなら、たとえ浮浪者でも話し相手が欲しいと思うほどの寂しさが、罪をつぐなうきっかけを連れてきたのかもしれない。
いくら教会へ通っても、神に祈っても誰も救ってはくれなかったのに、助けは思ってもみないところから現れた。助けてやったつもりで救われた。
それは偶然のようであって、きっと偶然ではないのだろう。
偶然と言えば、この映画にも偶然のような偶然でもないような一致がある。Matthäus-Passion(マタイの受難曲)とMatterhornが頭韻を踏んでいるんだけれど、ちょっと洒落てていい。
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