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つながっているだけのフレンドを切っただけでフェイスブックのストレスが軽減された話


 どうして、それまでグズグズと続けていたのだろう。
 こう言っては難だけど、さながら格安スマホのキャリアがあるのに、確たる理由もなくドコモの契約を続けていたのを切って乗り換えたような気分だった。
 何の話かというと、8年ほどつながっていたフェイスブックのフレンドを削除した話。正確には「8年ほどつながっているだけだった」フレンドの話なのです。

 そもそも、フェイスブックとは1回勝負のツイッターやインスタなどと違い、長文やコメントの応酬が多く、投稿のインパクトが弱くてもつながりを濃くしやすい特殊なSNS。
 そのためやろうとすれば「印象だけ勝負」もできるけど、スカスカで空虚な投稿になってしまう。中身を求める人も多いので、「印象だけを求める人」が真逆の「中身を求める人」にフレンド申請しても、断られることも多いでしょう。僕もよく断っています(わはは~)。
 僕はその「フェイスブックに中身を求める人」なので、コメントのやりとりを日常会話と同じような要領で楽しんでいます。でもやりとりが少なくても、実際に会うことがある人なら問題ないわけで。
 だから「やりとりもしないし、会わないし、つながっている意味が感じられない人」はフレンドになったが最後、グズグズとつながったままになってしまいがち。そういう会話ツールのようなものだから、気軽に「バサバサとフレンド切り」するのも気が引けてしまうわけで。だからライヴで打ち上げがあった翌日とか、話を合わせていた人からもフレンド申請が届いていることが多いので少し憂鬱です。
 そんな人が何人かいるうちに「もう関係を終了しちゃってもいいか」とフレンドから削除した人も、何人もいます。かといって会うわけでも会話するわけでもないので、不都合は感じられない。だって「フレンド何人いるか競うツール」じゃないからね、SNSってば。特にフェイスブックは。
 でもそれが、何年後しになってしまうと、なかなか切れないわけで……ねぇ。

 今回、フレンドを終了させていただいたのは、前述のように8年もフェイスブックでつながっていた人。もうそこまで来れば空気みたいなものじゃないか、と思えそうだけど。「その人」の場合はそういかなかったのです。
 ネット黎明期からサイトなりブログなりの発信を続けていて、SNSへ移行した人特有の現象なのだけど、相手は僕のことを昔から知っていたようで、フェイスブックを始めたばかりの僕へのフレンド申請時にメッセージでそう伝えてきていました。あたしゃその人を知らないんだけどね。それで気分よくフレンドになったわけで、しばらくは始めたばかりで要領もわからず、フレンドも少ないため、良好な関係性だったのです。
 でも、日頃からやりとりをする人と違って、長くつながっているだけで急にコメント入れるような人は、どんどん反応しづらくなってしまう。コメントや投稿が自分に合えば問題ないけど、感性とか反応とか話とか内容とか、合わないとこちらが合わせるように気を遣ってしまうでしょう?(そうじゃない人も多いけど)
 最初は気づかなかったけど、その人は相手にマウントする物言いが多く、SNS上で政治の右だ左だで揺れるようになった近年、やたらと政治色の強い投稿が増えていた。しかも僕は前述のように投稿の中身についてコメントの応酬をするのが好きなのだけど、その人はどんどん「無言シェア」「ひとことシェア」が増えていったわけで。
 それって自分では何も書かず記事に代弁させる行為で、しかも何かを突っ込まれたらコメント欄で反論もできる、はっきり言って卑怯な手段だと思っているのです僕は。ましてや政治的な投稿も多い人なのに、と。
 で、自分に合うか合わないか、相手がどんな人なのか、などを見聞せずにフレンド申請があればどんどん追加する人(あるいは自分からどんどん申請する人)っているよね?
 その人はそんな人のようで、フレンドが何千人もいたんです。だからその人のウォール記事にコメントするだけで、有象無象の見知らぬ人の反応さえ気にしなくてはならなくなってしまった。これって実はかなりのストレス。時には見知らぬ人からイヤな気分になる返信されたこともありました。だってその人は何千人もフレンドがいるので、そういう人に絡まれる可能性は絶対的に高くなるからね。
 やがて反応もできなくなっていったのに、僕が投稿をするとその人から必ず「いいね!」がつく。はっきり言って監視されているような心境。これって「SNSあるある」なんだろうけど、僕は中身で会話したいので、投稿にはとりあえず「いいね!」してしまう「何でも『いいね!』」も苦手だ。
 このへんって、フェイスブック特有だと思うんです。ツイッターとかインスタだと「やったー『いいね』ついたー!」だと思うんですが、フェイスブックでは「その先のつながりや反応」がダイレクトに感じられる。だからこそ。
 なので、フェイスブックでそういう人を見ると「ツイッターじゃねぇんだよ」と言いたくなるんですが、それは人の楽しみ方。強要はできない半面、僕の楽しみ方ではないのも事実。
 そうやって総合すると――「フェイスブックがなかったら、友達になれない(ならない)んじゃないか」と思えるようになったわけです。

 実はこの「フェイスブックじゃなかったら」は、フレンド基準としてすごくボーダー・ラインになります。
 というのも、フェイスブックというツールを通じてつながっているものの、実際に話が合うか合わないか、はフェイスブックで強く体感できる。だって文字で具体的にやりとりしてるから。そして実際に会うと、ネット上のやりとりの延長で話せてノリが合うことが多い。なぜならやはり文字でのやりとりがメインで、ネット上でも、ほぼ「会話している」ようなものだからだ。
 そんなふうにフェイスブックは他のSNSより「会ってみるとイメージ通り」が多く、むしろ「イメージより楽しい」も多い。逆によくある「ネット上では楽しい人なのに、会ってみたらイヤな人だった」が、とても少ない。なぜなら文字で「具体的に」やりとりしているから。あっ、残念ながら「会ってみたらやっぱりイヤな人だった」もよくあります(笑)。
 そのため、そこまでいかなくても「自分のことしか話さない人」「話を盛る人」「自分をよく見せる人」「嘘ついてる人」などは、長くやって経験値を積んでくると、自然とネットの文字面だけで見えてきてしまう。恐ろしいけどこれは本当の話で、最初はなかったはずの「フレンド用フィルター」をいつの間にか自分が備えているのがわかってくる。そのフィルター越しに見ると、フレンドにすると楽しいか、ダラダラつきあいになるだけか、すぐに切りたくなるか、つきあわないほうが無難か、という基準が前もって見え透けてしまう。ああ恐ろしい!(笑)

 そうして改めて「その人」を見ると、なぜ自分が今でもつながっているのか、わからなくなった。
 実際に会うこともなく、話も合わず、価値観もまるで違う。フレンドへの接し方やコメントの態度も自分と違いすぎるし、自分のことをよく見せて相手にマウントしているのが見えてしまう。
 そのうちに「友達」から「知り合い」にしてしまい、公開範囲を限定した投稿は、自分が投稿した通知が相手に届かないようにしました。それでも「公開投稿」をすると、もれなく「いいね!」がついて、的はずれなコメントが投げられ、対応に気を遣ってしまう。
「この人とつながっていて、自分に少しでも利はあるのか?」
 考えてみれば、答えは「否」。僕が相手に気を遣うことはあっても、相手は僕のことお構いなし。楽しいとかためになるとか、心理的な利益も何も感じられず、ただこっちが意味もなく気を遣うだけ。
 なので「フェイスブックじゃなければ、友達になっていない」と結論。それでも数日考えて、ようやくフレンドをはずしました。

 すると、どうでしょう。
 何でしょう、このスッキリした感じは!
 ずっと同じクラスだっただけで会話もしたことのない人と、別の学校になったような。1年間同じクラスだっただけで何年もずーっと年賀状が送られてきた人から、引っ越しを機に年賀状が届かなくなったような。そしてやっぱり、確たる理由もなく契約していたドコモから離れて、ようやく自分にふさわしい別のキャリアに移ったような。
 引っかかっていたものが取れたような、なぜか気にしなければいけないものから解放されたような気分だった。極端に言えば、なぜつきあっているのか自分でもわからない彼氏と別れたような(←なぜ女子目線)。

 しかも副産物として、フェイスブックの勝手な機能として有名な「知り合いかも」に表示される人が激減した。
 この機能は「フレンドのフレンドを少しずつ『全員』表示する」機能なので、その人の何千人のフレンドがいっさいがっさい無関係の僕に、勝手に「フレンドにするのにオススメ」として強制表示されていた。この機能は不評で不評でたまらないのに、フェイスブックがいっさい改善しないどころか、改悪を続けている悪名高き機能。
 毎日毎日、20人や30人、連続で「削除」しないと勝手なフレンド候補がたまっていって、気づけば自分のフィードに強制表示される。だから毎日削除していないと、数百人の表示がたまったりするヒドい機能。消しても消しても減らないのは、もはやフェイスブックのせいだと思っていた。
 当然だけど、何千人もフレンドがいる人を切ってしまえば、「そこから先」が表示される可能性もなくなるんだよね。知らず知らず、その人に別のストレスを付加されていたわけだ。
 しかも「自分に合わない人」なので、その人の知り合いでフレンドになった人もいなかった。正確にはいたけど、フェイスブックをやめたり不愉快な人物でフレンドを解消した人ばかり。
 これも当然だけど「自分に合わない人と好んでフレンドになっている人とは、やっぱり合わない」。
 極端に言えば、友達になりたくないパリピの友人のギャルとは友達になれないわけです。あたりまえだけど。
 だからこの機能は、不評なんです。残念ながらつながりとグループを増やして偶発的にクリックされる広告収入を得る指針になっているフェイスブックは、絶対にやめようとしないけど。
 シンプルで楽しかった初期のフェイスブックを返せ!(←これは私信)

 しかし、なぜこんなにも、その「曖昧な関係性」を放置していたのか?
 考えてみれば「ただ、長かっただけ」なんですよね。それこそ「情だけ」みたいな。
 それこそフェイスブックは画像と文字の投稿で「顔が見える」SNSツール。ツイッターみたいにバキバキとフォローしたりはずしたりするようなものではない。だから「情が湧いていた」だけなのですよね。「長くフレンドをしていた、というだけの情」が。
 だって、重くない? 「フレンド」っていう概念。だからフォローをはずすように、気楽にできなかった。
 でも改めて考え、見てみると、つながっているだけの情は意味も成さなくなった。
 僕は自分の奥さんに「私はドコモをやめたから、あなたがスマホにするならあなたもドコモをやめて」という非常に合理的なお願いをされ、格安キャリアのスマホを使っている。そのように「明確な利益と使用指針」がわかれば、ものごとって何でもスッと移行できる。でも転換となる要素がないと、変化ってさせづらい。
 だからフェイスブックは、自分が意識しないとグズグズ関係が続きがち。
 でも、いつだって答えはシンプル。必要なのはキッカケだけだったんです。でもSNSのキッカケなんてなかなかないので、自らモヤモヤを解消すべく、その人のウォールなどを見て考え、方向を改めた。それだけのことだったんスよ!(←急に居酒屋の後輩風に)

 こうした思いは、年令を重ねて「SNSも人づきあい」と考えている人でしょう。
 いいんですよ、現実だけどヴァーチャルなんだから。
 現実を軸に考えて、現実につきあいたい人とだけフレンドでいれば。時には損得で考えなければ、自分が損するだけ。
 それがフェイスブックだと、痛感した次第です。
 もしも似たようなモヤモヤを抱いている人は、立ち止まってもいいと思いますよ。きっと「いっそ新しいIDで仕切り直したい」っていう人も多いでしょうけど!(笑)

……でもきっと。
「自分がされたら、ちょっと哀しい」からなんじゃないかな。フレンドはずさなかったのって。
 どうやら僕はまだまだ、修行が足りないようです。ええ。

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