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Waves

8月が、終わる。週は、明ける。土、日は過ぎて、月曜がくる。

僕は、学校に行っていた。7月の後半から休みはじめて、9月になって最初の平日に学校に行く、そんな生徒だった。もう15年とかそれくらい前の話である。

休みが終わりに近づくと、ばくぜんとした不安を抱く。焦り、かもしれない。それまでの、毎日休んでいた「安定の状態」が打ち砕かれることを、不安に思っていたのかもしれない。自転車も、動き出すときがいちばんつらい。それとおんなじようなことだ。走り出してしまえば、いくぶん楽になる。

動き出すときのつらさを思って、重い気持ちになるのが、僕がやってしまいがちなことだ。でも、そのあとに「いくぶん楽になる」ことを、本当は知っている。でも、重い気持ちになっているその最中には、そのことを忘れてしまうみたいだ。

はじめから、動き出すつらさの少し先にある「いくぶん楽になった状態」を見越していれば、重い気持ちにならないで済むのだろうか。いや、でも、動き出すときのつらさを思うことを放棄するのも、どうかと思う。僕は、その必要があって、重い気持ちになっているのかもしれない。その仮説を、ちゃんと検証しないで、楽天的になることを僕は許さない。これを悪癖とする向きもあるだろう。それも僕は受け入れよう。

何かを生み出そうと向かう道は、つらい。すべてがそうとも限らないだろうけれど。生み出したときの、苦痛からの解放にともなう快楽があるから、道中の苦痛を受け入れられる。苦痛を選んで快楽を得ようとしないことには、苦痛も快楽もない。それこそ、快楽を知るものにとっての苦痛かもしれない。

なんにも感じず、なんにも感じさせない存在になってしまったら、それは存在にあらず、存在しないものと同義かもしれない。

「あろう」とする意思が、僕にはある。

そして、いずれ、なくなる。

お読みいただき、ありがとうございました。

#日記 #エッセイ #夏休み #学校 #仕事 #8月31日の夜に

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