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無償の愛


決して自慢ではないが、私の両親はどちらもいわゆる地主の家柄だ。父方の曾祖父は頻繁に氾濫していた沼地を何代かで干拓し完成させた人物である。小学校4年生の社会に「郷土をひらいた人々と」という単元があり、その副教材の地域版に紹介されていることもあり、地元では名前の知れた人物だ。
私が小4の担任をした年には、自分で子供たちに曾祖父とその干拓事業を教えることになり、いつも不思議な感覚に囚われた。同僚の先生方には周知の事実だったので、他学年の担任の時にも特別授業を頼まれることがあり、簡単な学習プリントを作り応じる事も多かった。
世間的に概ねそうであるように、母方の実家に比べ訪問する機会の少ない父方の実家ではあったが、高校生になってひとりで祖母を訪ねたことも何度かあった。古い建物独特の匂いがするその家で、のんびり時を過ごすことは、何とも言えないほっこり感があり、嫌いではなかった。もちろん祖母からのお小遣いも十分嬉しかったが。
母方の実家は大きな門のある重厚な建物だった。母は長女でその下に3人の弟がいたが、結婚も早かったため、私の兄が初孫でその後十年近く外孫ではあるが祖父母にとって孫は私たちふたりの時代が続いた。家が近かったこともあり、母の実家には頻繁に遊びに訪れた。
祖父母も大好きだったが、母の3人の弟である叔父さん達がそれと同じくらいに好きだった兄と私は、長い学校の休みには母に実家行きをねだった。
いつも祖父母は歓待してくれ、叔父さんたちは何時間も私たちと遊んでくれた。ある時、私たちと母が近くの駅からタクシーで実家に着くと、大きな門のところで祖母と1番下の叔父さんが待っていた。私たちは2人のところに一目散に駆け出した。祖母はよく来たねーと両手を広げる。しかし、私と兄が飛び込んだのは祖母を通り越し叔父さんの腕の中だった。
本当にあの時は!と、祖母は晩年までこの話を何度も話題にしては憤慨してみせた。でも、その目はいつも笑っていた。学生だったり、その後就職したりして、いつも3人の叔父さんが揃っていた訳ではないが、大体誰か一人はいつも実家に居てくれたように思う。朝は早く遊んで欲しくて寝坊している叔父さんの寝床を襲撃するのも楽しみだった。
なかなか起きてくれないときは、しつこく身体をくすぐったり、鼻をつまんだりして遊んだ。いつも最後は本気の叔父さんの逆襲に会い私たちは降参した。
少し大きくなっても、北海道、東京や大阪など叔父さんたちの勤務地に家族で遊びに行ったり
高校や大学時代はひとりで遊びに行ったり、友人まで連れてお世話になったりもした。私の大学時代のヨーロッパ旅行の時も、1番下の船橋の叔父さんが小さかった従兄弟を連れて成田空港まで迎えに来てくれて、その日は叔父さんの家に泊めてもらったりした。
祖父は外人のような風貌の背の高い人だった。実家から車で1時間ぐらいの所に住んでいた頃は定年まで高校の英語教師をしていた祖父が毎週我が家まで来て、兄と私と各々の友人数人相手に英語を教えてくれた。そして、お酒の大好きな祖父はその夜、これまた大好きなプロレスを見ながらゆっくり食事を楽しみ、翌日、満足して帰って行くのが常だった。
私たちは優しい祖父が大好きで、毎週その日を心待ちにしていた。ちょっと脱線するが、その夜、母はいつも近所のホルモン料理屋から大皿のホルモン焼きを祖父のために用意した。祖父と父の酒のつまみだったが 、毎回私たちもご相伴にあずかり、それもまた楽しみのひとつだった。
私は大学を卒業し教職について一人暮らしを始めてからも、週末に車を運転して母の実家を訪れ、祖父の酒の相手をしながら一晩過ごしたことも何度かあった。祖父の飲み過ぎを心配してもう終わりにして!と終始繰り返す祖母の小言をBGMにして、お酒が強い私も祖父母との一夜を楽しんだ。
大学では児童心理を学び、学校現場で働くようになり、いろいろな教育問題に直面する中で、子供にとってその子を理解し、どんな状況に陥っても自分を肯定し優しく見守ってくれる存在が一人でもいることの大切さを幾度となく実感してきた。
自分の命を自ら断とうとするような思い詰めた場面に追い込まれても、そのような存在が自分の周りにいることの安心感がその危機から救ってくれることもある。それを無償の愛と呼んで良いだろう。
私に無償の愛を与えてくれたのは、この祖父母と叔父さんたちのような気がしてならない。両親が私に与えてくれた愛情ももちろん大きい。それに勝るとも劣らない温かい愛情。それらに包まれながら成長できたことを私はこの歳になっても深く感じ、感謝する。自分ではっきりと自覚せずとも彼らの存在と優しさがずっと精神的安定と安らぎを与えてくれた。これまでの人生。私を何度も支えてくれたに違いないのだ。


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