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物語を味わう楽しみ、物語を創る喜び

我々はこれまでどれだけの物語に触れてきたのだろう。
小説、漫画、アニメ、ドラマ、映画。
歴史や古典の教科書、歌の中の詩の世界だっていい。
私自身で考えても、文字通り数えきれないほど触れてきたと思う。
細部まで覚えているものは少ない。むしろ、ほとんどの話は忘れてしまっている。

では、忘れてしまったのなら意味がないことだろうか?
否、そんなことはないはずだ。
自分の人生という一番の物語、昔のことを忘れてしまったらそこに意味はなかったのだろうか。
いつか自分が認知症になったら、それまでの人生は無意味だったというのか。
その時に何を感じたか、その時に何を思ったか。
人生というのはその連続なのであり、そこに意味が宿るのだと思う。そしてそれは、良くも悪くも消えることはない。

前置きが堅苦しくなってしまったが、物語というのはいいものだ。
時に時代すら越えて、色々な場所へ連れていってくれる。
自分の人生だけでは到底出来ない体験を教えてくれる。

人との会話もある意味物語なのかもしれない。
自分の目ではないもので見ている世界を知ることは、物語に触れている感覚に近い。
だから私は人とお喋りするのが好きだ(たまに疲れることもあるけれど)

センスというのは何を選ぶかということだと思う。

たくさんの物語に触れ、広い世界を見て、様々な考え方を知った上で自分は何を選んで生きていくのか。
生き方に正解不正解はないかもしれないけど、センスというのはある気がしている。

そして同時に、我々は物語を創ることも出来る。

筆頭は我々の人生そのものである。
今、この瞬間も創り続けている自分の人生、その物語に関わることで誰かに何かを与えているかもしれない、バトンのようなものを繋げているかもしれない。
時にそれは血よりも濃いものがあるような気がします。

フィクションという意味で架空の物語も我々は創ることが出来ます。
小説や映画ばかりではなく、ビジネスシーンで新しいサービスを考えるのも、まだこの世にはない商品を考えるのも、架空の物語を創ると同義なのではないでしょうか。

このように、物語というのは味わう楽しみも、創る喜びも内包してると思うのです。


書き手という意味で、このnoteでいくつか創作をしてみて感じたことがある。
それは、
『書くというのは、極限まで自分を切り売りにする行為』ということ。

私のような書き手が何を言ってるんだと思うかもしれませんが、逆を言えば私のような書き手でも感じたことです。

「何を書いてもいい」という状況で、自身の知識や経験を振り絞って何かを書く。
安直な言葉を使えば『産みの苦しみ』というやつでしょうか。
そんな行為を続けていると、自分でも気付かなかった自分を発見する瞬間があります。
単純に過去のことを思い出したり、モヤモヤしていた感情が言語化できたり。

この書くという行為を通して『自分を知る』という現象は自分にとって新鮮でした。
他の方法では得られない自分との向き合い方に、大きな驚きがありました。

フィクションについても書いてみての発見がありました。
まだまだ拙いものではありますが、この場所で小説を書いてみてその面白さを知りました。
今までは読む専門でしたが、実際に自分で書いてみると難しさや奥深さに直面しました(そこが面白さでもあります)

小説というのも始める手軽さがありました。
これが映画撮影になれば、機材を揃えなきゃいけないし、人手も場所も確保しなくてはならない。もちろん、大掛かりゆえのロマンはあります。
でも小説ならば紙とペンがあればいい(今の時代ならパソコンかスマホか)
そして圧倒的に自由である。何を書いたっていい。
この「自由」は書くという行為において障害にもなり得たりはするけれど、自由さが持つ魅力というのは確実にあります。

なんにせよ、物語を考えるのは楽しい。
一生を費やせる趣味に出会った気がする(これが仕事となるとまた違うのかもしれないが、それは仕事論としてまた別の機会に考えたい)
終わりがないというのも趣味としては完璧だ。

これからも残りの人生、たくさんの物語に触れ、たくさんの物語を創っていきたいと思う。



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