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厳格な両親と私

こんばんは。ばるです。
この度、クライアントさんに私をより知っていただくために、新たに以下マガジンを作成しました。

今回はその1本目として、両親と私の関係性についてざっくり幼少期から今に至るまでを書いてみました。もしよろしければマガジンもフォローいただけたら嬉しいです。



厳しい両親

私の両親は厳しかった。
私を礼儀正しく善良な子に育てようと努力してくれた。

躾として、指示に従わなかったり口答えしたりすると頭を叩く。
あまりにも頻繁かつ簡単に叩くものだから、両親が手を振り上げるだけで反射的に「ごめんなさい!」と叫ぶ子どもになっていった。たとえ、自分が悪いと思ってなくても。

元々はのんびりとした子どもで、通信簿には「マイペース」であることを指摘される内容がいつも書かれていた記憶がある。集団行動が苦手だった。

そんな性格だったからか、両親は私が「人並み」になれるよう支援したかったのかもしれない。その意図は確認できなかったけど、きっと両親なりの愛だったんだと思う。

だけど私には心の安全基地がなかった。
小学校や中学校で同級生から意地悪をされても、軽いいじめ(集団無視、聞こえるように悪口を言われる程度)にあっても、言い出すことができないくらい両親への自己開示を控えるようになっていった。両親の意見と食い違えば否定しかされないことを知っていたから。

昔から私の痛みに対する両親の反応は「それくらいで泣くな」とか「もっと大変な人はいる」とか、そういったものが多かった。
(両親が悪いのではなく、両親がそう育てられただけだとは思うけど。でも私からしたら平成の時代にあわせて育児をアップデートしてほしかった)

かといって深く心を開ける友人もいなかった。その場しのぎの友人。
単にグループに所属できない恐怖をごまかすために、本当に好きかどうかも分からない子たちと一緒に行動していた。時々嫌なことがあっても、好きだと思う努力をした。何か起こると自分の中に原因を探して修正してきた。

やっぱり、安全基地はどこにもなかった。
(次第にネットの世界に逃げるようになっていったけど)


寄り添って欲しかった

中学時代のあるとき、部活内でのいじめに我慢の限界がきて、部活に行こうとするとお腹が痛くなるようになった。毎回仮病のような理由で欠席するのもつらくて、部活に行くのを正式にやめるために勇気を出して両親に相談。正直話を聴いて私の感情に寄り添ってくれればそれでよかった。けど、両親は「いじめを解決」しようとして、私に確認もせず学校に報告した。

当然悪口は悪化する。あいつチクってんじゃねーよ、と聞こえるように言われる。私は何も言い返すことができない。そんな勇気があればそもそもいじめの対象になんかならなかった。

「親に話すんじゃなかった。間違えてしまった」と深く絶望した私は、そこから更に両親に対して心を開けなくなった。

私が本音を出せる場所はネットの世界だけになっていった。


本音を話せる場所

ネットの友人ははじめから匿名でお互いの背景を知らない。
だから何も気にせず、辛い話をそのままストレートに話すことができた。
今も関係が続く人はいないけど、当時なんとか踏ん張れたのはその逃げ場所があったからだと思う。

当時「携帯依存症」なんて言葉が流行った気もするけど、私もまさにそれだった。中学2~3年あたりで携帯を手に入れてからは、常に携帯を携帯し、食事中もずっと見ていた。両親に食事の時間だと声を掛けられても携帯に夢中でなかなか動かない。

礼儀とか作法に厳しい父がキレるには十分な理由だった。

ある日動かない私に腹を立てた父が私の携帯を奪い取ろうとした。
私からしたら唯一の息ができる場所を手放すことは耐え難く、必死に取り返そうとした結果、(ネット上で特に親しかった)友人とお揃いでつけていたストラップが千切れてしまった。

それを見た瞬間、私の中で何かがぷつりと切れる感覚がして、はじめて父に正面から暴言を力の限り浴びせた。その勢いは自分でも止められなかった。両親もひどく驚いていた記憶がある。

そのまま後先考えず家を飛び出した。

怒った父が原付で追いかけてきて、それも私にとっては怖かった。必死に逃げ回って、父を撒いたあと夜の住宅街で息をひそめるように座り込む。一息ついて冷静に頭を働かせてみると、私には家出させてくれと頼む友人などおらず、改めて自分には頼る相手がいないことを思い知った。みじめで孤独だった。

外で一晩野宿する勇気もなく、結局家へ。その後父とは2週間ほど口を利かなかったが、結局自分から謝って冷戦を終わらせる選択をした。頑固な父から謝ってくることはまずないだろう、そもそもこの空気感の中で生活するのは私も苦しい、と考えたためだ。

本当は悪いと思っていなかったから、謝るのは屈辱だった。
色々言いたいこともあった。特に、大人の癖に子どもに気を遣わせてんじゃねーよ、と言ってやりたかった。

ただ、両親は直接私には何も言ってこなかったけど、二人の間で何か相談でもしたのか以前ほど厳しく𠮟られることが減った。(曖昧だけど)

私の両親に対する記憶はこんな感じ。

ほとんどが怒られた記憶や管理されていた記憶。よほどマイペースな私を信用できなかったのか、過保護なところもあった。愛されていた気はするけど、その光景はビデオで見たものが多く、生の記憶はほとんど厳しい躾にかかわるものばかり。(それだけ私にとって印象的だったみたい)


私から見た両親

両親はどちらも善良な人間ではあった。両親ともに不器用ながら真面目に生きていたし、努力家だった。ただ育て方が時代に合わず少し古かったのと、(これも世代特有なのか)私のことを褒めるより貶す頻度が高かったのと、若さもあってか気分で怒ることも多かった点が、私の人格形成に大きな影響を与えた。

それでも両親には感謝している。金銭的な不自由なく私を育ててくれた。私にとって少し緊張感のある家ではあったけど、愛情も注いでもらった。厳しい躾で身に着いたものもある。礼儀や根性を身に着けたことで、社会人になってからは世代の違う年上からもスムーズに可愛がられた。(その代わり今手放せず困っている価値観も身に着いたけど)

でも、やっぱり心は開くことができない。「どうせ理解されないから」と話せていないことのほうが多い。私の結婚式で母が「何でも話し合える友達のような娘」と語ったとき、正直悲しくなった。同時に、私の本音は両親を傷つけてしまうかもと思うと、話すべきでないと感じた。

今は一緒に暮らしていないこともあり、昔に比べると両親への印象は柔らかなものへ変化した。ただ時々、心が繋がっていない感覚に寂しさを覚える。(両親がどう思っているかはわからない。あくまで私の話)

私も諦めきれず、たまに気まぐれでちょっとした開示をしてみるが、大抵欲しいリアクションとは違うものが返ってくる。やっぱり寂しい。でも両親なりの心配(=愛情)かもしれないと思うと、仕方ないのかもしれない…。


これが両親と私の現時点での関係性。
頼るにはハードルがある両親。
母は随分柔らかくなったけど、未だに父の機嫌や言動には警戒する。
(里帰り出産で産後うつになりかけていた時、父の発言が許せず人生2度目の父に対する全力の暴言を吐いた)

それでも昔よりは少しだけ頼れることも増えたから、ゆっくりと変化しているのかもしれない。今後も私が変わることで、両親との関係性もより良いものへ変化していくといいな。

(ちなみに、3学年下の妹もいます。ただ今回は両親にフォーカスしてみました)


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