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【翻訳】ガッサーン・カナファーニー『五月半ば』(パレスチナ)



親愛なる僕のイブラーヒームへ

 この手紙が誰のもとに届くのか、僕には見当もつかない。君と交わした約束は、毎年五月半ば、アネモネをいくつか君の墓へ持っていき、それを墓の上に舞い散らせるということだった。ほら、もう五月の半ばが来てしまった、一輪のアネモネすら見つけられない内に……。いや、たとえ見つけていたとしても、それを渡すために、どうして君の墓へ行けただろう?
 12年が経ち、君はあらゆるものからひどく遠ざかってしまったらしい。同時に、地面の深いところへと沈み込んでいき、崩れ去ってしまった。そして、僕たちの記憶の奥底へも沈み込み、溶け去ってしまった。顔立ち、君の顔立ちですら、もはやよく思い出せない。君の声、それはどんな声だっただろう。君の眼、その輝きがどんな風だったかも、もう思い出せない。君の動きを想像することもひどく難しい……。僕の脳裏に残っている、君に関するもののすべて、それは、微動だにしない体、胸の上で組まれた両手、耳と口端の間まで垂れ下がった血の細い糸――ここで僕は鮮明に思い出す、彼らがどのようにして君を運び、服もろとも、穴に放り投げたかを。彼らが土をかける傍らで、傷ついた嘆きの声が、君の友人たちの忍耐を切り裂いたことを。その声は彼らの後ろで徐々に高まり、やがて沈黙したことを……。
 いま問うべきは「なぜ僕が君に手紙を書いているのか」ということだ。君の墓にアネモネを持っていき損なった今、最も都合の良い行いは、12年前にはじまったこの沈黙を続けることではなかっただろうか? 僕には沈黙を続けることが不可能なように思われた。そして、五月半ばというものが、僕の胸を押しつぶすようにも思われた。それがまるで、ある時、間違いを犯し、僕を殺すかわりに君を殺してしまった狂気の運命であるかのように……。
 物語の糸の束は、僕の頭の中でほどけはじめた。僕はそれを忘れてしまうことを恐れている。君は信じるだろうか? 本当に、僕が忘却を恐れていると! きっと、君はもう忘れたのだろう。今となっては物語の何が君の関心を引くだろうか? それでも、僕は君と僕自身が、ふたたび物語の糸を紡ぐ手助けをしたい。
 ほとんどの物語にははじまりがない。しかし、奇妙なことに、僕たち二人の物語にははっきりとしたはじまりがある。それどころか、僕は誓っても良い。このはじまりは、明らかに、それが僕たちの人生に起きた残りの出来事の流れからは独立した一章なのだと、君がみなせるように存在するのだ。
 それはアスル、つまり午後の礼拝の少しばかり後のことだった。僕たち――僕と君――は大きな岩の側に立っていた。その岩は君の祖父の家の前で腰をかけるのにちょうどいい場所だった。僕たちは武器の使い方を学びはじめているところだった。その時まで、的は保存食の空き缶と古い油の缶だった。もし記憶に間違いがなければ、僕たちは「ガス灯の光」を鉛玉の的として、二度か三度、使ったはずだ。
 それはアスルの時だった。そうだ、僕はもう一度、このことを強調しよう。というのも、そのイメージは、アスルの陽光がそこに入らない限り、不完全なままなのだ。僕たちは大きな岩の側に立っていた。そこで僕は君の声を聞いた。
「お前は復讐したくないのか」
 君の言葉の後には短い笑いが続いた。僕の番が来て、僕は君に聞いた。
「何に対して?」
 君は指を向かい側の壁に向けて、何かを指し示した。そして、笑いが君の言ったことをまだ拭い去っている内に、君は言った。
「塔から鳩のつがいを奪ったあの猫に対してだよ」
 僕もまた笑った。そして思い起こした。この忌まわしい斑の猫は、二晩つづけて、庭にある鳩の塔にたどり着くことができたのだ。そして、僕の祖父と僕たちが熱心に育てていた最も出来の良い鳩のつがいをそこから盗んだのだ……。復讐を決意する前に、もう一度、僕は君の声を聞いた。
「俺が奴を殺そう。もし、お前が勇気に見捨てられたのなら……」
 君は銃を肩まで持ち上げて、それを放った。僕たちは異様な匂いのする硝煙を通して、哀れな猫が怯えて後ろに飛びのくのを見た。そして、猫は隣の庭の塀の方へ一目散に逃げると、塀の上に静止し身構えながら、驚きの目で、銃弾がかすめた古い壁の方を見つめた。どんな悪魔がそうさせたのだろうか、僕は叫んでいた。
「外した! 僕の運も試してやろう」
 どのように猫の頭に狙いを定めたか、今でも覚えている。銃前方の照準器を通して塀の上に猫が座っているのを見た時、僕は身体の震えを感じた。一瞬、狙いが乱れた。猫の目は依然、驚きと恐怖で、辺りを見回していた。一方で、尻尾は規則的に地面を叩きはじめ、両耳は危険を察知しようと立ったり傾いだりしていた。
 もう一度、僕は照準器の真ん中で、猫の姿をしっかりと見た。そして、引き金を引いた。弾は猫の顔を直撃した。猫はひっくり返り、宙で足を痙攣させた。やがて、側に倒れ、血が噴き出し始めた。君は僕を猫のところへ連れていき、武器の先端で猫を仰向けにすると、叫んだ。
「額のど真ん中を打ち抜いた、すばらしい……お前はこいつの思考の連鎖を断ち切ったぞ」
 しかし僕はちょうど吐きかけていたところだった。そして、僕は二週間以上、布団に籠ったままだった。
 少しして、君が見舞いに来たとき、君は笑って聞いた。
「どうしちまったんだ? あのコソ泥たる斑猫がお前をこんな風に痩せ細らせたのか? 笑わせるな! お前は猫ではなく人間を殺す戦場に飛び込む準備をしていたんじゃなかったのか?」
 僕は恥を感じた。そして、どうしてこの時、嘘が出てきたのか、僕にはわからない。
「猫だって? あんたは狂ってる……僕は子供のとき、石で猫をいっぱい殺したさ。銃床が撃ったときに滑って、自分の喉に触れた、それがあそこで起きたことのすべてだ。これが僕を吐かせた原因だ。それに僕はこの前から体調が悪かった」
 この嘘は君に功を奏しただろうか? 今に至るまで僕にはわからない。しかしその日、君が夜に僕のもとへ戻ってきて、「この2日間にあるであろう攻撃に備えろ」と耳打ちしたことは、僕を安心させた。
 隣の入植地に僕たちを運んできた車で、君はいつものように歌っていた。一方、僕はまだ例の事件に押しつぶされて苦しんでいた。突然、君は僕を小突いて野原に注意を向けさせた。五月はすでに野原に新しい命の色を与えはじめていた。
「このアネモネ……俺たちはアネモネの中にかわいい色とりどりの虫を探したものだ。一匹でも虫を見つけ出すために、赤いアネモネの花を千ほども千切ったものだ。とんでもない話だ……もし、毎年五月に俺の墓へアネモネの花束を持ってきてくれると誓ってくれたら、俺は幸せだ。約束してくれるか?」
「あんたは馬鹿だ。でも、もしこの約束であんたが黙るなら、約束してやろう」
 君の口から笑いは消えた。君は胸に銃を押し当てて、低い、しかし深い声で言った。
「ありがとう」
 正午に僕たちは入植地の農場へ下りた。計画は大胆だが、可能なものだった。入植地の端にある家々の占領、その爆破、そして再び我々の街への帰還。しかし、起きたのはそれ以外のことだった。ユダヤ人たちが僕たちを奇襲し、激しい戦闘が起こった。僕は君の隣にいた。やみくもに僕は銃を発砲した。僕たちは誰一人として狙うべき人の姿を見ていなかった。このあいだ中、僕たちは畑と茨の間を匍匐前進し続けていた。
 そのとき、僕は怖がっていただろうか? 今や思い出せない。しかし、ユダヤ人が突然、僕たちの前に立ち上がって、僕の頭は真っ白になった。そのユダヤ人は持っていた手榴弾を僕たちの上に投げた。煙でほとんど何も見えない中、君の声が聞こえた。
「奴を殺せ、クリップが詰まった!」
 煙は流れていった。男はまだそこに立っていた。二つ目の手榴弾をもって、畑の中に僕たちを探していた。僕は、男が怯えた目でそこに立っているのを、照準器を通して見た。僕の指が引き金を引くことができない内に数秒が過ぎていた。僕は震えていた。その目標は僕が狙撃できる範囲に立ったままだった。そして、この装置を通して僕は見た。男が君を見つけ、君の頭の上に二つ目の手榴弾を投げ、逃げるのを。
 このようにして、僕たちは君を僕たちの街へ帰還させた。そこで彼らは君を、シャヒードがそう埋葬されないといけないように、服をすべて着せたままで埋葬した。君の母は君の友人たちの後ろで泣いていた。一方で、僕は恥じる気持ちがあふれてやまない中、アネモネの花束を湿った土の上に舞い散らしはじめた。それは、僕たちが帰る途中に摘んだものだった。  
 あの日から12年が経った。僕は恥に押しつぶされている。そのあいだ中、毎年五月が慈悲のない悪夢のように、僕の胸を重くする。僕の脳裏で大きくなる問い、それは、どうして今になって君を思い出し、君に手紙を書いているのか、ということだ。僕にとってもっとも都合がいいのは沈黙し続けることではないのか? いや、違う。僕にはできない。日々はすぎていく。君は土にかえっていく。僕は君を忘れることを恐れている。思い出すたびに苦しむとしても、忘れたくない。この痛みは、やがて、僕に気付かせることができるだろう。君の墓へ戻り、その上にアネモネの花をいくつか舞い散らすということが、いかに避けられないことであるかを……。
 今、僕がどこまで成長したのか、わからない。僕は震えずにユダヤ人を殺すことができるだろうか? 僕は年を重ね、キャンプのテント生活は僕をあの頃より荒々しくした。しかし、これらすべては僕に確信を与えはしない。
 しかし、唯一の確信が僕を守っている。それは、恥が骨の髄にまで沁み込んでいるという感覚だ。これで十分だろうか? 僕はこれで十分だと思っている。僕が殺した猫は、鳩のつがいを食うために盗んだだけだ。その原因は飢えだったに違いない。今となって、僕は数千もの男たち、女たちの飢えに直面している。そして、僕は彼らとともに、僕たちからすべてを盗んだ泥棒に対峙して立っている。
 これが、君という存在により近づくために沈黙を破った原因になるのだろうか? 君はきっと僕の告白を許すだろう。かつて君が発見しなければいけなかったように、僕も発見した。人々が生きていくために、いったいどれくらい、他の人が死ななければいけないのかを。これは古臭い知恵だが、今、その中で最も大事なことは、僕たちがその知恵を生きているということだ。

1960年 クウェイト

翻訳:ريحان السوغامي
底本:غسان كنفاني (الأعمال الكاملة : القصص), الكملية, 2023



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