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#067_240415 森の外で生きるということ;デイリー通信簿

【朝→昼→夜】5→5→4
【SRED】→3(ショックを受けるとと食べてしまう…翌日のお昼ご飯のために作っておいたたまごサンドを食べてしまっていた…)
【総合】→4
【JJ】→8(付き合っている人がいなくてよかったと思った1日だった…)

予定通りに用事をこなしきれない…先週は通院も何度かあったし、必要で通院しているのに「頻繁に来院されても困る」との邪険に扱われて傷つくも、調剤薬局のご協力もあり、何とかエンシュアリキッドを分けて持って帰った。重たかった。今、振り返るととても辛い1週間だった。

2018年に当時勤めていた大学を辞めさせられて以来「生きる気力を高める努力」をしたきた。その努力がだんだん「死なないための努力」になってきている。

今、辛いことと言えば「森の外」で生きるという発想が地元のコミュニティに行き渡っていないこと。

私も2018年までは労働市場という森の中にいた。森の中で才能を開花できた人が「成功者」と呼ばれることになっているのだけど、私は最後の2年間、森の中で「仕事を与えられない」という憂き目に遭った。英語ができる人で海外出張ができる人という条件で入った組織だったが、海外出張もなく、十分英語力を発揮する機会もないまま、辞めさせられた。

失意のどん底にあっても、個人として国際協力、国際貢献をする!と傷む心を抱えながら、手当たり次第、何でもした。そのおかげで職業訓練でフードビジネスへと世界観を広げられた一方、ある日突然、母が置き手紙を残して出て行ってしまった。

「私は悲劇のヒロインです」とは決して言わないし、思っていないけれど、不運が度重なれば誰だって傷つくし、療養が必要になる。私も例外ではなく、これ以上頑張れない…限界に達してしまった。

そこで森の外で生きるという発想に辿り着いた。無理して、自分を捻じ曲げてまで森の中に戻ろうとするよりも、森の外で生きる、それでもいいじゃないか?と。森の外で生きる、つまり働かない生き方にものすごく抵抗はあった。母が出て行ったのも「ちゃんと学校を出させてやったのに、なぜ、こんなに身入りが少ないか」だと思う。市場価値のない私に生きる価値がないと苦悩した時もあった。

けど、森の外で開花する才能というのもありそうな気がしている。私の活動は何ひとつ収益を生むものではないものの、私の枯渇した命に息を吹き込んでくれる。しかし、それを理解してくださる人はまだ少なく、多くの人が「甘えている」と認識している。甘えてると思われて生きるのは辛い。そんな中、生きることを諦めない自分を大切にしたい。働かない人間にも生きる価値はあることを私自身経験値を積む。

森の外についての詳細は上の動画をご参照ください。

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