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テレビマンだった父はやりたい仕事をやり続けられたのだろうか

先日、テレビ東京の著名なプロデューサーである佐久間宣行さんが退社してフリーになられたというニュースが報じられていました。

真偽は不明ですが、退社の理由はまだまだ現場で働きたかったからでは、ということでした。会社に所属していたら、異動もあり得るだろうし、管理職になって業務内容が変わってくることもあるだろうし、やりたいことをやり続けるための決断なのかなと思います。


私の父も新卒から定年まで、とあるテレビ局のテレビマンでした。私のテレビ好きの遺伝子は確実に父から受け継がれています。そんな父とテレビの思い出を。

父はいわゆるずっと”制作畑”の人間で、約40年のテレビマン人生紆余曲折あったものの、主にバラエティ番組を作っていました。

今をときめく著名テレビプロデューサーと同じように、父も芸人さんたちにカンペ出ししていたかどうかは分かりませんが、本物のプロデューサーはカーディガンをプロデューサー巻きしたりしないということは知っています。

父はADからの叩き上げで(AD時代はもちろん私の生まれる前ですが)若い頃は会社に泊まりっぱなしだったりもしたし、動物系の番組を担当していた頃は幼い息子と娘、妻を残して世界中いろんなところに撮影しに行ったりしていたらしいです。だから昔の父のパスポートはいろんな国の入国・出国スタンプでいっぱいでした。

私が幼稚園の頃、そんな父がゴールデンタイムの新番組を担当することになりました。当時のことはよく覚えていませんが、ゴールデンの新バラエティを任されるには若手だったみたいで、それなりに抜擢だったようです。

その番組は今はもうレギュラー放送は終了しているのですが、今でも年に1、2回はスペシャル番組として放送されていて、父が考えたであろうコーナーが行われていたり、当時のキャストの方が今でも出演されていたり、いちばん嬉しいのは父だと思うけど、私も見ると誇らしいし嬉しく感じます。

そんな父の初ゴールデンバラエティを母と兄と私の三人で見るのが我が家の習慣でした。私がその番組でいちばん楽しみしていたのは、どんな人気コーナーでもなく、番組の最後のスタッフ名が流れてくるエンドロールで、そのさらにいちばん最後に父の名前が流れてくる、その瞬間がいちばん好きでした。毎週毎週飽きもせず最後の最後までじっと見ていたのを覚えています。(だから今でもテレビ番組を見るときはエンドロールまでちゃんと見るのがクセになっています。)

その父はフリーになることなく会社員人生を全うしたので、あるタイミングで現場を離れることになりました。番組は放送され続けるけど、自分だけ現場を退いて、(たぶん)管理職的なポジションにつくことになったのです。

それを父がどう捉えていたのか、嫌々だったのか、それなりの出世に嬉しい気持ちもあったのか、本人に聞いたことがなかったので知る由もないけれど、冒頭の佐久間さんのニュースを見たとき、そんな選択肢(フリーになって現場にい続ける選択肢)があったのなら、もしかしたら父もそうしたかったのかなぁと、しばし思いをはせました。

ちなみにそう思うのにはちょっとした根拠があります。父が現場を離れてしばらく経ってから、毎週末15時頃から30分のドキュメント番組を欠かさず録画して見ていることに気づきました。それは世の中の技術者にスポットを当てた番組で、ゴールデンのバラエティと比べると地味だけど、ほっこりしたり感動したり、見る人に訴えかける番組でした。いつものクセでエンドロールまで見ていたらその番組の最後に父の名前が流れてくるのが目に入りました。現場を引退したはずの父が新たに作った番組だったのです。

どういう経緯でその番組が爆誕したのかは不明ですが、現場を離れてなお作った番組だったから、もしかしたら本当に作ってみたかった番組だったのかもしれないし、そしてやっぱりまだ現場にいたかったのかな!と思った次第でした。

今定年退職した父の趣味は、子供達が幼い頃に撮りためた8ミリビデオをせっせと編集してDVD化させることです。不要なシーンをカットし、テロップまで入れて、”本物”さながらの編集をしているところをみると、やっぱり現場は楽しかったんだなと思います。

父も佐久間さんも、天職に出会えた人生に違いない。並列で語るのはちとおこがましいかもしれませんが。


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