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独立勢力頭領から功臣にまでなった臧覇(ぞうは)

皆さんこんにちは、お久しぶりです。ただのオタクです。
実は今回記事にする人物をとても悩みました。
ある程度の傾向のようなものは作ろうかなと思っていたもので…。

と言うわけで今回は試行錯誤の末に「臧覇(ぞうは)」を紹介することにしました。
しかし、臧覇を主軸に書かれている作品どころか1回も名前が出て来ない作品もあるくらいです。
特に僕が度々名前を出している北方謙三先生の三国志なんかがそうですね。

ーー臧覇が曹操に仕えるまでーー

臧覇は黄巾(こうきん)の乱が起こった当初は、当時徐州(じょしゅう)刺史を務めていた陶謙(とうけん)に仕えていました。
その後は独立勢力として徐州に拠点を構えて勢力を興します。
徐州が曹操に鶏犬すら尽きたと言われる大虐殺があったり、陶謙が亡くなった後劉備が後を継いだり、兗州(えんしゅう)争奪戦に敗れた呂布(りょふ)が徐州に身を寄せて徐州を強奪したり。
と、様々な事件が徐州で起きるなか臧覇は独立勢力として存在し続けます。

そして呂布が徐州に拠点を置くということは西にいる臧覇に南に拠点を置く袁術(えんじゅつ)と挟まれている状態を嫌い配下である高順(こうじゅん)の反対を押し切って臧覇討伐に軍を向けます。
結果高順の意見が正しく呂布は撃退されました。この後呂布と臧覇は話し合い2人は和解します。

曹操が呂布討伐の為に軍を出すと呂布の味方をするために軍を出しますが、曹操に撃退され身を隠すことになります。
この時の戦いは横山光輝先生の三国志で描かれていたはずです。山を拠点に落石やら倒木、伏兵で呂布軍からの増援と共に曹操軍を攻撃しようとしますが、伏兵を配しやすい地形に警戒を抱いた許褚(だっと思います)。
一気に駆け抜けることを部下に命じこれが功を奏し、犠牲を少なく突破し追撃してきた呂布と臧覇の連合軍を撃退するワンシーンが描かれています。

臧覇に賞金を懸けることを決めた曹操は捕まった臧覇と直接会って気に入り登用することを決めました。
これまでに拠点を構えていた徐州に加えて、その北に位置する青州(せいしゅう)との2州を統治することになりました。

ーー曹操から曹叡の代までーー

青州の2州を統治することになったとはいえ当時はまだ袁紹(えんしょう)が青州を領地にしていました。
そこで、袁紹との戦が始まると臧覇は青州方面を侵攻することを担当しました。
臧覇が度々青州を侵しているので、「官渡(かんと)の戦い」の最中曹操は東からの増援を警戒することなく安心して戦に挑めたと言われています。
曹操が青州を統治していた袁紹の長男袁譚(えんたん)を降すと臧覇は自分と自分の部下の家族を自ら鄴(ぎょう)(袁紹の本拠地でもあり冀州(きしゅう)の州都)に家族を送るという忠誠を示し、曹操はこれを大いに評価しました。

この後かつて自分の部下だった昌豨(しょうき)を于禁(うきん)と共に討伐したり黄巾の残党を夏侯淵(かこうえん)と共に討伐。
そして、統治していた青州・徐州の治安維持に功績があったとして列公に取り立てられ徐州刺史となり昇進もしました。

曹操が自ら孫権に10万の軍を向けた際に陳蘭(ちんらん)・梅成(ばいせい)という人物が曹操に叛旗を翻しました。
これを張遼らと討伐に向かいますが、孫権が援軍を差し向けます。これを受けて臧覇は皖城(かんじょう)に入城することでこれを阻止します。
さらに舒口(よこう)という場所に駐屯した陳蘭に万余の船に軍を乗せて救援に向かいますが、舒に臧覇が現れたため孫権が再び退却を決めます。
しかし、ここで臧覇が追撃し前後から挟み撃つ形になり孫権軍は大量の溺死者を出す大敗北を喫し、陳蘭も張遼に討たれる形になりました。
この勝利の後孫権が固守する巣湖(そうこ)を攻めましたが曹操が大損害を受けることになり、攻め切ることも出来ず撤退をすることになりました。

その数年後に濡須口(じゅしゅこう)の戦いが始まりますが、大雨で長江の水位が上がり、孫権軍の船が迫ってくる光景を見て将士達は不安になり、張遼も撤退を考えるほどでした。
ここで臧覇は「魏王は我々を見捨てることが無いので命令を待つべき」と張遼に進言し、次の日には臧覇の言う通り曹操から撤退命令が届くことになります。
このことを張遼が曹操に伝えると曹操はこの判断を評価して仮節として、加えて昇進もさせます。
戦においては濡須口を攻めきれず撤退臧覇は夏侯惇(かこうとん)の下に置かれることになります。

曹操が崩御し、曹丕が魏王を継ぐことになると臧覇も功臣として昇進しますが、この時臧覇の部下と青州兵(せいしゅうへい)は勝手に持ち場を離れる事件が起こりました。
「222年から223年にかけての三方面での戦い」では曹休(そうきゅう)と張遼と共に呂範(りょはん)という呉将に大勝。
曹休の命令を受けて徐陵(じょりょう)の呉軍を襲撃し破りますが、全琮(ぜんそう)と徐盛(じょせい)に迎撃され大敗します。
曹休は曹丕と一緒に育った人物なので、臧覇とは1個下の世代となりますが、おとなしく命令に従っている所は臧覇の器の大きさですよね。

しかし、臧覇は朝廷に不満を漏らすようになりました。
自分に兵を預ければ忽ち呉の領土を横行して見せると豪語していました。
この発言に加えて、臧覇の部下が勝手に持ち場を離れた過去も相まって曹丕は臧覇に不信を抱くようになりました。
結局臧覇は執金吾(しっきんご)に任命され特進となり、曹丕の軍事顧問ということになりましたが兵を剥奪されてしまいます。
一見すると昇進ですが、軍人的な地位はほとんど無くなってしまうような人事となりました。

曹丕が崩御し曹叡(そうえい)が後を継ぐと加増されますがその後まもなく死去してしまいます。

ーー臧覇の評価ーー

臧覇の評価としては青州・徐州を治めた功績が大きいと思います。
三国志を書いた陳寿(ちんじゅ)は州郡を守り、威厳と恩恵を示した人物として称えています。
因みに臧覇以外には李通(りつう)・文聘(ぶんぺい)・呂虔(りょけん)を挙げています。
臧覇が赴任した青州・徐州は李通が任された准南(わいなん)・汝南(じょなん)、鍾繇(しょうよう)が任された関中(かんちゅう)の地に並んで重要な場所だったと評価されています。

軍事面においては曹操から方面軍を任せる人物として文聘(ぶんぺい)と共に評されました。
実際に曹操と共に戦陣に立っている状況が少ないですし、中央にいたのは曹丕に執金吾を命じられた時くらいだと思います。
不満を漏らしていたとは曹操と曹丕は真逆な人事をとることになっていますが、曹丕に関しては次回書かせていただこうと思います。

ほとんどが列記されてる正史の文面を書いただけですが、今回はいかがでしたでしょうか?
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