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#139_【読書】祖父・鈴木貫太郎 孫娘が見た、終戦首相の素顔/鈴木道子(朝日新聞出版)

唐突ですが、日本の歴代総理大臣の中で最高齢だった方はどなたかご存じでしょうか。

日本人の平均寿命は戦後右肩上がりで延びていますので、麻生太郎さんや森喜朗さんあたりかと思っていましたが、なんと太平洋戦争が終戦したときにその役を務めていた鈴木貫太郎翁になります。
慶応3年生まれの、当時御年77歳!(゜o゜;;
※総理在任時の年齢です。

先日、鹿島海軍航空隊跡に行ったついでに、鈴木貫太郎記念館に寄った話を書きました。

【記念館のリーフレットと野田市教育委員会で発行している戦後70周年記念誌です。】

その中で、お孫さんの道子さんがご存命であることに触れましたが、最近ご著書が発刊されたということで、紹介したいと思います。


何度となく訪れた死にかける体験

人生において死にかける体験が何度もあったそうです。
よく知られる話としては、二・二六事件における暗殺未遂や終戦の日の私邸襲撃があります。二・二六事件では、貫太郎翁のいる侍従長官舎を襲撃した安藤輝三大尉が、タカ夫人の命乞いでトドメを刺さなかった話や、終戦の日に都内を転々としながらも暴徒から逃げ切った話だけでも、作り話を超えたエピソードが残っています。
戦線に出ていた時には、水雷艇長として日清戦争における威海衛の戦いでの偵察中、敵に自身が乗る船が発見され、大砲や小銃を発砲されながらも帰隊した話や、駆逐艦司令として日露戦争の時に哨戒中一酸化炭素中毒で意識不明になった話も。

【小茂田濱神社の拝殿では、砲弾が両脇を固めます(゜o゜;;。】
【台座には「明治廿七八年之役清国威海衛於北山嘴砲台獲」と彫られています。】
【こちらは「明治三十七八年之役戦利品」とあります。】

スケールの大きさを感じさせる人物像

貫太郎翁に対する人物評として

よく人の話を聞く方でした、けれど自説は決して曲げない 

祖父・鈴木貫太郎 孫娘が見た、終戦首相の素顔/鈴木道子 P33

というのを目にします。
懐が深く、ブレない信念をお持ちだったということなのでしょうか。

先に挙げた安藤輝三大尉は、二・二六事件の2年前、若い陸軍士官か考える「国家改造論」を説きに貫太郎翁を訪問しています。
その時も翁は、静かに話を聞き、明治大帝の話から世界の歴史なども引き合いに出して諭し、大尉は「聞くのと会うのとでは大違いだ」と感服して帰ったという話が残っています。
そして、この本の所々に「若い人は次の時代を築いて」というような文言が見られます。総理大臣を引き受けたときの心境ともつながるのだろうと思いますが、おそらく自分は(当時の寿命を考えると)長く生きているし、何度も死にかけているから、苦しい役目は自分が受けとめ、その先は若者に明るい時代を拓いてほしいという想いがあったのだろうと推察します。
1945年4月8日の首相談話で発せられた「国民よ我が屍を越えて行け」という言葉には、ひょっとしますと「若い人たちは、戦争が終わった後も日本を支えていかねばならんのだから、私を越えていきなさい」という意味も含まれていたのかもしれません。

聖人君子かというと…

大人物として語られますが、若い頃から一貫してそうだった、ということでもないようです。
例えば、ドイツ駐在中に海軍大学で教えた生徒のほうが序列が上になって憤慨し父にたしなめられたことや、軍令部長を務めた後で侍従長を打診された(位が下がる)ことに悩んだことも記録に残っています。
軍隊のような組織にいれば、序列の上下で、できることが変わりますので、貫太郎翁も「にんげんだもの」ということでしょうか。
むしろ、そのような話を聞きますと、人として信用できる気がします。

【鈴木貫太郎翁の日常訓「正直に腹を立てず撓まず励め」です。】

身内が感じていることと言葉の重み

貫太郎翁は背丈が6尺と大柄な体格だったとのことで、幼少期道子さんが抱きつくと「大木に蝉」と冷やかされたという微笑ましいエピソードもある一方、家族も様々な事件に振り回されていきます。
二・二六事件のときのタカ夫人のことは先述しましたが、総理大臣になる時には農商官僚だった長男の一(はじめ)さんがボディガード兼「耳」(二・二六事件の襲撃による後遺症で耳が遠くなった)の秘書官として、翁とともに動かれていました。実際、組閣本部とした自宅にピストルを持った者まで現れたようですが、翁の覚悟に心服して帰ったという話も。
そのような状況のもと、終戦への道筋を付けていく過程では、敵国、内閣閣僚、陸軍、国民世論(マスコミ)と様々な主義主張がある中、どのタイミングにどの単語を選ぶべきか、とても慎重な言葉選びが求められていたことが、本文や保阪正康氏の解説から伝わってきます。
戦争の勝ち目がないという見立てがありながら、伝えるには状況が許さなかったであろうと判断したこと、ポツダム宣言への対応が「黙殺」と報じられてしまったことにより、よからぬ方向に事態が動いてしまったことなどについて、翁への批判が浴びせられ、忸怩たる思いがあろうかと感じます。
しかしながら、褒めてくれる人もいなければ、ワクワクすることなど皆無、おまけに命を狙われるこんな役回りを引き受け、4か月少々の期間で終戦、そして戦後日本への道筋を付けられたのは、十分偉業だと思います。

受験勉強の日本史の知識だけですと、終戦時の総理大臣だから、名前だけは覚えておくか、くらいの認識でしかなかったのですが、大変恥ずかしく感じます。
最近ある方が、お店の閉店準備を進めながら「物事は始めるよりも、閉じることのほうがよっぽど大変である」とおっしゃっていましたが、私も同様に感じますし、全く日の当たらない中粛々と完遂した貫太郎翁の功績は、もっと注目されてほしいと思います。

余談

著者の鈴木道子さんは音楽評論家で、ミュージック・ペンクラブ・ジャパンの会長を務められた方でもあります。

鈴木一さんは法務省入国管理局長だった1952年6月(朝鮮戦争交戦中)、日韓の民間親和団体の必要性を提唱、「日韓親和会」を発足した中心的人物です(1977年解散)。
日韓親和会では、大村収容所に収容中の朝鮮人の仮放免者の身許引受、職業補導、職場の斡旋等に尽力された、とのことです。
また、JRAの副理事長となり、有馬記念を発案されたとも。

鈴木貫太郎翁の次女、足立ミツ子さんが台湾(台北)にお住まいだった時の家は、リノベされてレストランになっているそうです。


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