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2023年に『乳と卵』を読む②

「そういえば読んでなかった。」と大学生の頃に古本屋で買った『乳と卵』(川上未映子 著)を2023年に読んでみたことで、感じてことをまとめようと思う。
前回は、この本を読んで触発された私の「美的感覚」についての考えを書いてみた。
その他にもこの物語を通して、子を持つことについても考えを巡らせたので、二回目の今回はそれを記してみる。

0.はじめに

作品の紹介

本作は、第138回芥川龍之介賞受賞作品である。
著書の川上未映子氏は、ホステスをしていた過去や、歌手として活動していた時期などがある珍しい経歴を持った小説家だ。そんな彼女の、色恋や女性性といった世界観で展開していく作品、『乳と卵』のあらすじはこちら。

娘を連れて大阪から上京してきた「私」の姉でホステスの巻子。巻子は豊胸手術を受けることで頭がいっぱい。その娘の緑子は言葉を発することを拒否し、ノートに言葉を書き連ねる。母と娘、姉と妹、叔母と姪。この3つの関係性が作用しあい、それぞれの苦悩と願いが絡まり出していく。

『乳と卵』あらすじ

読者は、女性であれば、きっとこの作品に出てくる様々な女性らの会話に聞き覚えがあるに違いない。そんなリアルで距離感の近い感覚がある本作だが、現在23歳の私が感じた、この20年弱で変わりゆくもの、変わらないものを3回に渡って書いてみたいと思う。

本記事はその第二弾で、テーマは『親と子、出産、育児』。
ちょうど「こども側」から「こどもを育てる側」のちょうど真ん中あたりに位置する年齢のわたしが作品内の巻子・緑子・「私」らから感じた内容を言語化していく。

1.女性と出産

当事者がマイクを持つとき

本作では丁度性教育などが始まりだす年齢の登場人物がいる。それが巻子の娘の緑子だ。彼女は、卵子や精子というものがあって…と学術的な説明を学校の教師や友人から聞くわけだが、どうにも想像がつかず、腑に落ちない様子だった。それに、今まさに子どもの自分が既に子どもを産むことのできる状態であることを聞かされて、混乱しているようでもあった。
小学校の低学年であれば体操服に着替えるときも同じ部屋のままだった。知らぬ間に更衣室というものが用意され、それぞれ分かれて着替えるようになる。本人たちが自身らの変化に気づく前に、子どこもらを取り巻く環境は大人の手によって変えられる。
そして彼ら・彼女らはそのまま大人になるわけだが、出産の当事者である女性の声が男性によって押し殺されるような世界が長く続いていたから、出産のことを語る言葉は必然的に男性目線のものが多くなってしまう。
そうするとやはり、出産というのは神聖で何か奇跡のような表現が多かったのだろうと想像してしまった。それを踏まえると、女性作家による女として生まれたキャラクター目線での、混乱を愚直に文章化している本作はそういった側面での意義を大いに感じた。

当事者は意見を持たねばならないのか

この物語の女性3人は出産に対しても立場が異なる3人だ。巻子はもちろん娘を産んでいる出産経験者だ。その妹の「私」はまだ独り身で産むことはできるけど産んだことはないという立場であり、緑子は自分が産むことのできる立場だと実感をまだ持っていない女の子というわけだ。
子どもの緑子が何も分からないというのはともかく、きっと出産経験のない(同作者の他の作品で明らかになるが)「私」もきっと子どもを産むということは、あなたにとってどいういうことかと聞かれてもすぐには答えられないだろう。それに、出産経験のある巻子だって、別に深く考えてみたことはないと答えるかもしれない。
しかし、わたしは今の世間は当事者であれば必ず何か意見を持たなければいけないというような強迫観念が、薄い膜が人々をくるむかのようにうっすらとはびこっているように思うのだ。
確かに全てで無関心でいることはよくない。けれど、自分の身体に関わることだからこそ無理に白黒つけた考えを持つことを強制させてはいけないと緑子の不安な心情描写を読んで思ったのだ。

2.親になるとは

細分化されゆく価値観

この2023年を生きるわたしの感覚で、2000年代に発表された『乳と卵』を読むと少し引っかかったのは、女性と出産というものがかなりシームレスな関係性で描かれていることだった。現代ではSNSやマスメディアで、「あえて子どもを持たない夫婦」や「子どもを持ちたいのに持てない人」といったような状況の人々の声がフィーチャーされることが多いように思う。
前述したように、この小説は作者が2019年に発表した作品とリンクする部分があり、この『乳と卵』の内容だけで何かを批判したいわけではないことを念頭に置いていただきたいのだが、やはり作品発表当時はそういった立ち位置の人らに目を向けることは少なかったと思う。
そういったかつての時代背景も反映されてか、体の中に次なる命を育むことになる卵がお腹の中にあることに対して、「いつか私も母となるのだ。産むことになるのだ。」という漠然とした不安感を前提とした描写が多かったようにわたしは感じた。
それが2000年代頭の女性が抱いていたであろう不安だとしたら、今はかなりそういった種の不安は軽くなっているのではないだろうか。女性はみな母になることが幸せだというステレオタイプ的な価値観が押し付けられることも徐々に減ってきている。生まれながらにして抱えて生きてきた卵子を全て流しきる前に、子どもを作らなくてはいけないと怯える女性はかなり減っただろう。それに、子どもを産みたくても産めない人への配慮も段階的ではあるが意識されるようになっていると思うし、不妊治療やそうった情報の発信者や、コミュニティも多くなってきている。
本作を読んで、わたしはこの20年程度の間に大きな変化があったのだと実感した。

贅沢という言葉が使われてしまう今

何より今の,日本で「子ども」というワードから想起する問題は少子化一択だろう。傾いたままの経済、労働力不足の影響からか、子どもを持つ余裕のある大人というのは悲しいほどに減ってしまったようだ。
わたしは大学進学を機に東京へ越して来たのだが、物価の高い都会ではなかなか3人兄弟の家族などを見かけないような気がする。子どもの人数をいうのは如実にその過程の経済レベルを示すような目安になってしまいつつあるだろう。
子どもの頃のわたしは、人間が愛する人と子をつくり、育てていくことというのは理屈で語るものではない、もっと精神的な繋がりの話だと思っていたし、今もそう思いたい。だが、今の日本ではそのような考え方よりも、「責任を持って育てきる財力があるか?」「年齢的に健康な子どもが生まれる確率はどのくらいか?」など、条件のような部分を考えた上で、出産に至らねばらない手続き的なもののように思えてしまうのが悲しい。ただ自分の子どもを愛したいという欲望が生まれたときに、自身の境遇によってはそれはエゴだと跳ねつけられてしまうかもしれないのだから。

3.おわりに

何か明確な結論や気づきなどをまとめているわけでもなく、書き連ねるようなかたちになってしまったが、まだ自分が女性であることにピンときていない緑子の姿から、多くのことを感じた。自分の女性としてのアイデンティティの捉え方はもっと自由でよいはずなのに、「分からない」と言うことの怖さや、気持ちの問題では片付けられない複雑な問題と化していることを改めて認識したのだった。

今回は作品の中の『出産』にまつわる自分の感じたことを書いてみました。
次回は最後で、『名前』をテーマに書こうと下書き中です。この記事をいいなと思ってくだった方は、スキ&フォローしてお待ちいただけると嬉しいです。

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