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長嶋一茂「三流」と、平野啓一郎「私とは何か」。〜摘読日記_30

「三流」(長嶋一茂)

長嶋一茂著「三流」を読み終えました。

2001年発行

ライターの石川拓治氏が一茂さんへのインタビュー(128時間にも渡ったらしい)から構成したもので、一茂さんの書き下ろしではないよう。

長嶋一茂と言えば、今やテレビタレントとして有名で、若い視聴者は、昔プロ野球選手だったこと、”ミスタープロ野球・長嶋茂雄”の息子であることを知らない人もいるのかもしれない。

最近あまりテレビを見ていないが、石原良純、高嶋ちさ子と番組(「ザワつく!」)をやっていたり、たぶん、他の番組にもよく出ている印象。

たぶん、売れっ子なのだと思う。


この本は2001年発行でかなり古いもので、まだタレントとして今ほどお茶の間に定着しておらず、元・プロ野球選手の肩書きが今より濃厚な時だったのではないだろうか。

本の内容は、一茂さんが自身の人生を振り返り、父・長嶋茂雄への思い、プロ野球選手としての夢、はたまた初恋の話なども語っている。

病気(過呼吸症候群)のこと、野球選手への未練など、包み隠さず話しており、一茂さん自身、あとがきで「自分を語ることがこんなに苦しいことだと思わなかった。」と告白している。


感想としては、一茂さんがプロ野球選手になるために、そして実際になってからどれだけの努力をしてきたか、また、プロ野球選手としての夢(500本、600本はホームランを打って、野球の指導者になる、請われればどこかの球団の監督になる・・)にここまで固執していたこと、が意外だった。

一茂さんとしては、一度この時点(36歳ぐらい)で自分の人生を全て棚卸しし、新しいステージで勝負する腹を括るためにここまで語ったようだ。

一茂さんファンや、長嶋茂雄ファンの方にもおすすめできます。

長嶋親子の自宅での特訓の話や、父(当時、巨人監督)から息子へ(当時、巨人選手)「戦力外通告」を行うシーンなどは、グッときました。


私とは何か 「個人」から「分人」へ(平野啓一郎)


こちらは今読んでいるところ。

2012年発行

まえがきから少し引用。

 本書の目的は、人間の基本単位を考え直すことである。
 「個人」から「分人ぶんじん」へ。
 分人とは何か? この新しい、個人よりも一回り小さな単位を導入するだけで、世界の見え方は一変する。むしろ問題は、個人という単位の大雑把さが、現代の私たちの生活には、最早対応しきれなくなっていることである。

まだ読み途中だが、冒頭の、「個人」という英語のindividualから翻訳した概念というものは、よく考えてみると、我々日本人には馴染まないものなのではないか?

「分人」という、個人よりも小さな単位で自分というものを分けたほうが、より生き易くなるのでは? という仮説について論考を重ねていく内容となっている。

著者が「この本は抽象的な人間一般についての理論書ではない」と前置きしている通り、著者の具体的なエピソードの紹介が多く、すっと読める。(例えば、ある編集者と「メタル好き」という共通の趣味があることを知り、メタルの話を深くしたところ、「本当の平野啓一郎は、メタルマニアであり、メタルの話しかしなかった!」と書かれて当惑した、など。)


この本を読みながら考えているのが、直前で読んだ一茂さんのことだったりする。

長嶋一茂は、長嶋茂雄の息子であることを何よりも誇りに思いつつ、間違いなくそのために非常に悩みの多い半生を送った。

「長嶋茂雄の息子なのだから、プロ野球選手になり、成功して当たり前。」と周囲から思われ、また、自分もそう信じた。

その人生は、想像しただけでも息苦しい。

一般の人間は、自分を「分人化」して、あらゆる場面(家庭、職場、友人との付き合い・・)で自分を使い分けして生きることができるが、長嶋一茂はそのように器用に生きることは難しかったのではないだろうか。

もっとも、「三流」を読むと、一茂さんは、「自分の夢はプロ野球選手になること。」ということを、青年時代は周囲に漏らさなかったという。なので、その自分の中に封印してきた夢をついに外部に表明した時に、周囲の友人は驚き、感動さえしたそうだ。

しかし、その、逆に「漏らさない」という態度も、「長嶋茂雄の息子」であるが故の反動的な態度にも思える。


「分人」の方は、読み終えてまた何か書きたくなったら記事にしたいと思います。

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