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パパ言ったでしょ?くるまには前の席と後ろの席があってその間には仕切りがあるって。 映画「麗しのサブリナ」

 この映画の一番気に入っている言葉です。

 そして、オードリー・ヘプバーンの代表作で多分一番これが好き(それかマイフェアレディかな!)。

 大富豪のお抱え運転手の娘サブリナにとってその主人の二人の息子ライナスとデイヴィッドは憧れの存在すぎていた。特に、明らかにプレイボーイなのだがハンサムな弟のデイヴィッド。恒例の大パーティーが邸宅で行われているのを遠くから覗くしかないサブリナは、屋敷の計らいで明日からパリに発ち相手もいない花嫁修行に行かせてもらえることになっているが、何のためか分からず、自殺を図るもライナスにあっさり見つかってしまう。素っ気ない対応でパリへ放り出されたんだけど、二年後、帰ってきたサブリナはジバンシィの優雅なファッションに身を包み、見違えるほど美しくなっていた。兄弟は夢中になる。しかしそんなサブリナを父は危惧する――いくら頑張っても叶わぬ恋ではないのかと。

 随所に散りばめられたウィットと気の利いたセリフが楽しい。美人になったサブリナの周りで「恋のようなもの」が駆け回るのも楽しい。

 料理仲間の「男爵」は、スフレを焼くのを失敗したサブリナに言う。
「料理に身が入ってなかったね
 恋をしとる ズバリ言えば恋に破れとる」

 漫画か…!
「月みたいな存在なの 手が届かないわ」
「月にロケットを飛ばす時代だよ」

 楽しくて、オードリーも美しくて見ていて時々あったかくてほっこりすること請け合い。

 ・パリから戻ってきた時のサブリナパンツ姿の彼女の完璧なたたずまい
 ・たびたび流れる耳に残る優雅なテーマ曲「ラヴィアンローズ」
 ・オードリーの歌う「ラヴィアンローズ」
 ・いつも心配そうな、娘を思う父の顔
 ・都会のビルにある見たことのな無いほど立派な彼らのオフィスではしゃぐサブリナ超kawaii。
 ・ライナスに、弟の代わりとキスをされた時のサブリナのはっとした表情。
 ・もう20世紀だよと貴方は言った…
 ・これが20世紀かと、おじいちゃんは言った!

 監督:ビリーワイルダー 1954年米。

 …まだの人、観たくなったでしょ?観た人、また観たくなったでしょ?
 ベタの観たくなる映画レビュー、他のも読んでよね。マガジン「映画」

 …で、実はここからが本題です。

パパ言ったでしょ?くるまには前の席と後ろの席があってその間には仕切りがあるって。

 父が運転手として主人ライナスを送迎している時、サブリナのことばかりを言う彼にひとこと、ピシャリと言う。

 人生はこの車と同じです。
 同じ車に乗ってても、前の席と後ろの席は違うのです。

 お願いします、身分違いですが…、
 車庫の上で一生を終わる娘でもありません。


 身分の格差が、人を不幸にする時代なのだ。

 …いや、それは今でも同じじゃではないか、と私は想像した。日本でも、現代でも。

さて、ここからは映画から飛躍した私見であり、とても厳しい話しであると予めお断りしておきます。

 それはあらゆる種類の「身分」「格差」、というものがあって、車の前の席(低い)と後ろの席(高い)の間には、越えられない仕切りがあって、お互いのことを理解・尊重することも難しく、低から高へは憧れこそすれ超える方法を想像することも難しく、超えるために努力することも難しい、
 更に、
 どうすれば越えられるのか?考えてみることすら難しいようだ――、そう言うことがデフォで様々な分野であるのでは無いか。この現代の日本で。

 私はそんなことを思った。

 生まれつきあるいは後天的に身体に障害を得た方は、精神も健康を保つのは非常に難しい状況に置かれてる方々を多数知ってる。

 家庭環境や友人関係・会社・恋愛などで、厳しい状況に会い、同じくメンタルに厳しいダメージを受けた方々を多数知ってる。

 家庭がそもそも貧乏で、または、社会に出て見て思ったよりも一人では生活するのもラクじゃ無い現実に気がついた人も多いようだ。日本は、国が・国民が思っている以上に不景気なのだ。私は海外に仕事でちょくちょく行き先進国の方々と交流するが、そこの中流家庭(平社員)でも、はっきり言って日本とはまるっきり違う優雅な暮らしをしている。

 でも、そのことではありません。

何よりも恐ろしい、あるタイプの「仕切り」が存在するな、と思っている。

 それはその「仕切り」があることを受け入れているのか、それとも――私は彼らとほとんどその話しを直接したことが無いから分からないのだが、その「仕切り」を超える方法をしっかりと考えたり探したりしたことがあるのか。もしかすると、無い、あるいは無いレベルでしか行なっていない・すぐに諦めてしまったのでは無いか、そんな気がする。

 それこそが、「仕切り」。
 それこそが、「格差」。

 誤解を恐れずに言い換えると、「考える力」。

 それが、恐ろしいことに日本の現代に(もしかしたら世界のそこかしこにも)、横たわっている、

 そんな気がしました。

 なぜ、彼らはいつもいつまでもクヨクヨしてるのか。
 なぜ、彼らは勉強に不満ばかり言って、勉強しないのか。
 なぜ、彼らは困った環境から、国の制度などを利用して、脱出しようとしないのか。
 なぜ、彼らは偏狭な偏見に囚われて、ゼロベースで物事を考えることが出来ないのか。
 なぜ、彼らは収入が低いことに困難を感じる報告をしながらも、少しでもより良い(適切と言う意味)仕事を探そうとしないのか。
 なぜ、noteにはそう言う方が多いのか(私がそういう方ばかりをフォローしているだけかしら。あ、きっとそうだ)。

 私の家も親戚は違ったけどうちは貧乏でしたし、私も兄弟も、塾に行った事もない、教育を強要されもしなかった。大学をたぶん行けるのに促されなかったのは、明らかに、家計の問題でした。しかし、私は明らかに、次第にそうなったのだが、今は「後席」にいる。なぜか。

 これが社会問題だとしたら、何か、自分の過去をよく思い出すことで、私にも出来ることがあるかもしれない。実はずっとそう思っていて、このnoteでも過去の記憶を辿った話しをよく書き綴っている、と言うのはある。

 「麗しのサブリナ」のこのレビューを書くために他のレビューサイトで300件ほど読んだが、この「仕切り」「格差」について言及している意見は一つも無かった。blogで1件だけ、引用されてるだけのものがありました。

 だから、最後に、仕切りを意識させられ続けてきて、乗り越えたか乗り越えてないかの段でサブリナは言ったんだと思うんです。運転手の父に。

パパ言ったでしょ?くるまには前の席と後ろの席があってその間には仕切りがあるって。

 と――。

 そしてサブリナは仕切りを乗り越えた。


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